「イタリアに着いた途端に――列車事故があったの」

翌朝、瞬は星矢に話し出した――昨夜のことには一切触れずに。
瞬は、昨夜の自分たちの行為を星矢に聞かれていたことを知ってるはずだったのだが。
むしろ、聞かせるために、星矢にあの部屋を与えたのだったろうに。

星矢の知っている瞬は、そんなことをする人間ではなかった。
だが、星矢は、そんな瞬を責める気持ちにはなれなかった。
むしろ、そんなことをせずにいられないほどに、瞬の心が乱れているのだろうことが、気がかりで仕方がなかった。

「――ヴェネツィア発ロンドン行きのオリエント・エクスプレスだった。あれに乗って旅行するのもいいなって話しながら、僕たち、あの豪華列車を見てたの」

瞬たちが、聖域を出てイタリアに着いた日に列車の脱線事故があったことは、星矢も知っていた。
原因は不明。
ヴェネツィアのサンタ・ルチア駅で、死傷者が多数出た事故である。
オリエント・エクスプレス開業以来の大惨事と、日本でも話題になった事故だった。
初めての二人きりの旅行だというのに験が悪い――と、一足先に直行で日本に戻ってきていた星矢たちは思ったものだった。


「それはただの偶然だよ。ううん、その後に起こったことだって、全部、偶然にすぎないはずなんだ」
「その後?」
星矢が問い返すと、瞬は小さく首を傾けた。

「作業の邪魔になりそうだから、僕たち、そこから離れて、買い物に行ったの。僕、ピノ・シニョレットのヴェネツィアン・グラスが欲しかったから。シニョレットの店で、ちょっと氷河から離れて、作品を眺めてたんだ。そしたら、知らない男の人が話しかけてきて、僕が困ってるところに、氷河が戻ってきて――氷河は何もしなかった。ちょっとその人を不愉快そうに睨みつけただけ。なのに、その人、急に心臓を押さえて、脂汗をたらして、そこに倒れちゃったんだよ」
「へ?」

「僕、店員さんを呼んだの。店員さんはすぐに駆けつけてきてくれた。氷河がちょっとその店員さんに視線を走らせて――店員さん、慌ててたんだね。展示品の棚を一つ横倒しにしちゃって、数百万円分の作品が粉々」
「も…もったいねー!」
「うん、そうだね……」

そう言って、瞬は、形ばかりの微笑を作った。

「その人は、忌々しそうに氷河を見て、『イェッタトーレ』って言って、魔よけの印を結んだ……」
瞬は、人差し指と小指を立てて、その印を結んでみせた。
「これで、獣の角を表してるんだって」

「なんだ、そりゃ。イェ――家が建っとれ?」

瞬の結んでみせた魔除けの印を、潰れた影絵のキツネのようだと思いながら、星矢は、聞き慣れない言葉の反復に挑戦した。

「イェッタトーレ。魔眼者……目に妖力を持つ人のことだって、後で知った」

「魔眼者?」

日本語で説明されても、意味不明の言葉である。
星矢には、眉をひそめることしかできなかった。
氷河がその魔眼者――だとでもいうのだろうか?


「その時は気にもとめなかった。僕たちにはどう見ても弁償責任はなかったし、そのままホテルに入って――あの、それで、僕たち、その夜……。僕、なんだか開放的な気分になってたんだ。イタリアって、そういう空気があって、あの、だから……」
「…………」

これは、突っ込みたくても突っ込める話題ではない。
星矢は唇を引き結んだ。
夕べの氷河と瞬のやりとりからして、それが多分、二人には初めての夜だったのだろうことだけは、推察できた。

瞬が睫を伏せて、まるで囁くように小さな声で、告白する。
「それで、あの……氷河の目、恐いくらい青くて、黒く見えるくらい青くて、あんなに間近で、あんなに長く見詰め合ってたことってなかったし、僕は、すごく心臓が苦しくなって、心臓が止まってしまっても不思議じゃないくらいに痛んで、でも、その時は、そういうものなんだろうって思ったの。好きな人にあんなふうに抱きしめられたら、誰だって、あんなふうになるんだって思った」

『あんなふうに』――おそらく、昨夜のように、瞬は氷河と交わったのだろう。
言葉ではなく、その身体で。

昨夜の瞬のなまめかしい喘ぎ声を思い出して、星矢の頭に血がのぼった。






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