12月に入ったばかりの木枯らしの吹く寒い夜。 シュンは壮絶な覚悟を決めて、氷河の住むアパートを初めて訪れた。 「瞬?」 「瞬じゃなく、シュン! 近くまで来たから寄ってみたの。ねえ、今夜泊まっていってもいい?」 1週間もの苦悩の末にやっと手にした決意を鈍らせたくなかったシュンは、自分に考え直す時間を与えないために、挨拶もそこそこに用件を口にした。 そんなシュンの決意も知らない氷河が、ためらいと戸惑いに眉根を寄せる。 「それは……ベッドが一つしかないんだ」 「それって、好都合じゃない」 「え?」 反応の遅い氷河を押しやるようにして、シュンは氷河の部屋に入り込んだ。 そこは――それは、殺風景な部屋だった。 生活に必要なもの――というより、生きていくのに最低限必要なものしかない。 ただ、壁に掛けられた一枚の絵だけが、優しい春の風景に繋がる小さな窓のように暖かい。 淡い色の花が咲き乱れる中で、幸福そうに微笑んでいる一人の天使の絵。 その絵に描かれている天使――その天使は純白の翼も、エンジェル・リングも備えていなかったが――は、確かに似ていた。 天上にいた頃、闇の存在も知らずにいた頃の、シュンの姿に。 一瞬その絵の優しさに息を飲んだシュンは、しかし、すぐに、天の聖霊だった自分に決別し、その視線を氷河の上に戻した。 「わかってるくせに」 「シュ……シュン……?」 兄を救わなければならないのだ。 シュンは、その悲痛な思いすら今は忘れようと努めながら、震える指先を氷河の胸に押し当てた。 「瞬としたことなかったわけじゃないでしょ?」 あの地獄の王が憂鬱げにたたえていた扇情の憂いを真似て、シュンは瞳を潤ませた。 「ねえ、どんなに瞬が清らかだったかしらないけど、一緒に暮してたら、そういうことしたくなるじゃない。綺麗な子だったんでしょ。天使みたいに。この部屋寒いしねぇ」 氷河が、シュンの言葉に微かな困惑の色を浮かべる。 「……シュン、何か辛いことでもあったのか」 「……!」 胸に感じた、針で刺されたような痛みを、シュンは無理に打ち消した。 そして、まるで、挑むような口調で氷河に言った。 「誤魔化さないでよね。瞬と寝たことあったんでしょ。それとも、それって人に言えないような悪いことなの? そのいけないことを、氷河の清らかな瞬ちゃんはしたの」 「…………」 瞬を汚すようなその言葉は、氷河には受け入れ難いものだったらしい。 それでも、激昂した様子はなく静かに、氷河は短くシュンに答えた。 「時々……。瞬は身体が弱かったから」 「時々も毎日もおんなじことだよ。ふぅん。やっぱりしたことあるんだ。で? そっちの方の愛し方も、氷河は瞬に教えてもらったの」 「…………」 「そーいや、氷河って、瞬に会う前はワルだったんだっけ。そっちの方はもうとっくに知ってたんだ。それだけは、氷河の方が瞬に“教えて”あげたわけか」 「シュン」 「氷河の清らかな瞬ちゃんは、どんなふうに喘いだの。それとも、これはいけないことだって言って、ずうっとお祈りの言葉でも唱えてるの」 「シュン、何があったんだ」 「何も!」 鋭く、まるで悲鳴のようにシュンは氷河の言葉を遮った。 「何もないよ!」 闇の中で苦しみ呻く兄。 天使のような顔をして、氷河に組み敷かれ喘ぐ瞬。 その瞬を、自分には穏やかな眼差ししか注いでくれない氷河が、獣のような目をして貪っていたというのだろうか――! 何もかもが、シュンの心を乱すものだった。 何もかもが、シュンには認めたくないことばかりだった。 (落ち着いて……そんなの、わかってたことじゃない! 人間はそうやって、そんなふうにして魂を溶け合わせるんだって、僕は知ってたじゃない。どうして取り乱すの! 瞬も氷河も人間なんだよ、天使じゃない。そんなの、当たり前のことなんだから!) その、人間にとっては当たり前のことを、自分が氷河にしてもらって何がいけないというのだろう。瞬が氷河にしてもらったことを、自分も氷河にしてもらうのだ。 そうすれば、きっと兄は救える。 そうすれば、瞬を氷河の心から追い出すことができる。 そうすれば、氷河はきっと自分を見てくれるようになるはずなのだ。 シュンは乾いた唇を舌で濡らし、今度は意識せずに、その瞳になまめかしさを浮かべた。 「ただ、瞬が羨ましいなぁ…って、そう思っただけ……」 そして、少し寂しそうに、シュンは氷河を見上げた。 「ねえ、僕、瞬に似てるんでしょう? なら、いいよね。瞬だと思って僕を抱けばいいの」 「そんなことはできない」 だが、氷河はシュンの作り物の眼差しにはにべもなかった。 「どうして? 氷河の清らかな瞬ちゃんは、人に優しくしてあげなさい…って、言い残していったんでしょう? なのに氷河は僕に優しくしてくれないの」 「違う。瞬が言いたかったのはそういうことじゃない」 どうして、瞬には氷河の心と身体を動かすことができて、自分にはできないのか。 シュンは半ば怒りに支配されながら、氷河への挑発に出た。 「優しい人だって、したくて仕方ないことってあるんでしょ。氷河だって、男だもの。瞬が健康な子だったら、本当は毎日だって瞬を抱きたかったんでしょう?」 氷河が、一瞬かっと頬に血のぼらせる。 それは、どうやら図星だったらしい。 「僕だったら、そうしてあげられるよ。氷河が望むなら毎日どころか、一日中でも」 シュンは、氷河の身体に自分の身体を寄り添わせた。 「瞬がどんなふうだったか教えてくれたら、それと同じようにしてみせてあげる」 「あ……」 氷河の唇に――人間の唇に――シュンは初めて口付けというものをした。 自分の唇が微かに震えているのが何故なのか、シュンにはわからなかった。 「教えて。瞬は……瞬はどんなふうだったの……。恥ずかしそうにするの? それとも大胆なの? 泣いたりした? きっと、何もかも氷河に教えられた通りにしてたんでしょう?」 氷河の麻のシャツの裾からそっと、その内側に指を忍び込ませる。 氷河の肌は、室内の気温に比して、恐ろしく熱かった。 氷河はシュンの手を自分の肌の上から取り除こうとはしなかった。 多分、彼は、自分の手の感触に、あの天使のような瞬の指先を思い起こしているのだと、そう感じ取れることが、シュンを冷徹な悪魔にした。 氷河の心臓の鼓動が激しいのがわかる。 彼の心が葛藤してるのがわかる。 そして、彼の身体が、悪魔の愛撫に反応しかけているのもわかった。 「僕は生きてるの。生きて氷河の側にいる。だから、氷河が欲しくてたまらないの。氷河をちょうだい。その心も意思も言葉も身体も情熱も欲望も、みんな僕にちょうだい」 人間の欲望の源がどこにあるか、シュンは天界を出るまで知りもしなかった。 それは、心と目、なのだ。 「僕を見て。瞬に似てるでしょう。欲しいでしょう? 瞬は綺麗だったの? 僕は瞬ほど綺麗じゃないの?」 「瞬は……綺麗だった、天使のように」 シュンを見詰めている氷河の声は、まるで催眠術にかけられた人間のそれのように、はっきりとした輪郭がなかった。 「そう……その天使は? その天使は、どうやって、氷河を燃えたたせたの」 「何も……瞬はただ、そこにいるだけで……側にいてくれるだけで……俺は……」 「それなのに、時々しか許してくれなかったの。それじゃあ、氷河、苦しかったでしょう」 同情に耐えないという表情で氷河を見詰めてから、シュンは彼に嫣然と微笑みかけた。 「でも、今夜はどんなにしても平気だよ。僕の器は瞬みたいに脆くはないから。氷河が望むことなら、どんなことでもしてあげる。さあ、来て」 ベッドに座り、氷河の腕を引く。 あまり力をこめずに。 そこから先の行為は、シュンの誘惑に屈した氷河の“意思”で行われなければならないのだ。 「氷河、早く。それ以上我慢するのは無理だよ。わかってるでしょう? あんまり焦らすと、僕、もう帰っちゃ……あっ!」 次の瞬間、まるで片手で身体ごと持ち上げるようにして、氷河はシュンをべッドの上になぎ倒していた。 もう逃がさないとでも言うかのように、シュンの右と左の二の腕をシーツの上に抑えつけ、驚きに目をみはっているシュンを、上から見下ろすようにじっと凝視している (兄さん…!) 心の内で兄を呼んだのは、氷河が恐かったから、だった。 『どんなことでもしてあげる』と囁きはしたが、この先自分が何をすればいいのか、何をされるのか、正確なところをシュンは知らなかった。 が、とにかくその気にさえさせてしまえば、大抵の人間は後戻りできないものだということだけを、何故かシュンは知っていたのだ。 氷河はじっとシュンの瞳を、何かを確かめるように見詰めている。 怯えているのを悟られてはならないと、シュンは無理に気を張って、その青い瞳を見詰め返した。 やがて、氷河の厳しい視線がふっと緩む。 「瞬……」 彼は、亡くなった恋人の名でシュンを呼び、それから、突然人が変わったようにシュンにのしかかってきた。 (え… !? ) 戸惑う暇も、シュンには与えられなかった。 飢えに飢えた獣でも、ここまで気が狂ったように獲物の肉に貪りつくことはあるまいと思えるほどに激しく、氷河の心と身体がシュンに絡み付いてくる。 呼吸をするのも苦しく感じられるような愛撫と、息をするのも忘れてしまいそうなほどの交接の快感。 それを幾度も交互に与えられているうちに、シュンは徐々に自分が何者なのかすらわからなくなっていったのである。 「瞬、瞬、瞬……!」 繰り返し呼ばれるその名こそが自分の名なのだという錯覚が、氷河の熱と指と声とで導かれては到達する、あの忘我の一瞬に、シュンの魂を支配した。 氷河の体温と息遣いとで熱を帯びた空間に閉じ込められ、シュンは、自分が氷河によって瞬にさせられているような感覚を味わうことになったのである。 そうして。 シュンは、自分のすべてを氷河に奪い取られ、作り替えられてしまったような、不思議な感覚の中で、翌日の朝を迎えた。 |