一度だけ、瞬が、笑顔でない表情を氷河に向けてきたことがあった。 氷河が自分の本業の方の用事で一日、瞬のところに顔を出せなかった日の翌日。 瞬のスケジュールをすっかり頭に入れていた氷河が、例によって顔パスで某テレビ局の瞬の控え室に入っていくと、そこに、心ここにあらずといった様子でぼんやりしている瞬の横顔があった。 「氷河!」 ドアの前に現れた氷河の姿を見た途端、その虚ろだった表情がぱっと輝きを取り戻す。 「氷河、今日は来てくださったんですね! 昨日は何かあったんですか !? 一日姿が見えないから、僕、氷河はもう来てくれないのかと不安で……ううん、もし、病気や事故に合ってたりしたんだったら…って思って、僕……」 「瞬……」 1億2千万日本国民のアイドルに涙ぐみながらそう言われ、氷河は目一杯戸惑ったのである。 瞬は誰に対してもいつも笑顔を向ける。 誰に対しても優しいのだ。 氷河は、瞬にとって、自分は、彼が笑顔を向けるべき1億2千万人のうちの一人にすぎないのだろうと思っていた。 それが、ほんの一日会わずにいただけだというのに、まるで長い別離の末に旧友と再会したかのような喜びよう――である。 氷河は、一瞬、自分は瞬にとって少しは特別な存在になりつつあるのだろうか? と期待した。 期待して、だが、すぐにその期待を振り払った。 瞬は誰に対してでも笑顔を向けるのだ。 そして、誰に対しても優しい。 その笑顔と優しさは、向ける対象が1億2千万人いるからといって、一人の人間に与えられる量が1億2千万分の1になるわけではないのだ。 普通の人間が、100しか持ち得ない優しさを肉親や友人に切り売りしてまわるのとは違って、瞬は全ての人間に100の優しさを向けるのである。 そんな芸当ができるから、児童合唱団並みの歌しか歌えなくても、瞬は、スーパーアイドルたりえるのだろう。 氷河は、それが――1億2千万人の内の一人として、瞬と直接接することの幸運と、自分が1億2千万人の人間の中の一人にすぎないことが――喜ばしく、そして、苛立たしかった。 「そんな心配をする必要はない。わかってるのか? 俺はおまえのスキャンダルを嗅ぎまわってるハイエナなんだぞ…!」 瞬の“大切な”1億2千万人の内の一人でいるよりは、もしかしたら、瞬に敵対するただ一人の人間でいた方が、瞬の中ではより重い比重を持った存在でいられるのかもしれない――そんな気分で、氷河は半ば怒鳴りつけるように瞬に言った。 しかし、瞬は、氷河のそんな苛立ちを、細い指で軽く振り払った。 「ハイエナは、こんな優しい目はしていないでしょう? 氷河は、いつも心配そうな目で僕を見てくれています」 瞬にそんなふうに出られてしまっては、氷河も腹立ちの高いテンションを保つことは困難である。 氷河を支配しかけていた、瞬に対する理不尽な憤りは、すぐにその矛を収めることになった。 「……心配にもなるさ。おまえは毎日ろくに眠ってないし、俺がおまえにつきまとい始めてから3ヵ月、おまえはただの一日の休みもとっていない」 「それは大丈夫。僕、若いんだもの、少しくらいの無理はきくんです」 笑ってそう答える瞬に、しかし、先程までの苛立ちとはまた別の怒りが、氷河の中に湧いてくる。 「少しくらいじゃないじゃないかっ! このまま続けていたら、おまえはそのうちきっと身体を壊すぞっ!」 「氷河……」 瞬は、氷河の激昂に驚いたようだった。 自分より7、8歳は歳上の“大人”が、子供のように怒気を露わにしている様を、瞳を見開いて見詰め、それから、瞬は、はにかむように淡い微笑を目許に浮かべた。 「ありがとうございます。でも、好きでやってることだから」 今この瞬間だけは確かに自分だけに向けられている瞬の微笑。 氷河が、瞬のその微笑の中に、特別な意味や感情を必死になって探り出そうとしている自分自身に気付いたのは、番組のアシスタントディレクターが本番収録のために瞬を控え室から連れ去り、氷河の視界から瞬の姿が消えてしまったその瞬間だった。 |