時計は午前3時をまわっていた。 瞬が所属するプロダクションは有限会社として登録されており、その出資者は瞬の肉親ということになっているらしい。 事務所は都心の中規模ビルの最上階の半分のフロアを占めていて、ただ一人のタレントのために設立された事務所としては、贅沢にすぎるものだった。 無論、そのただ一人のタレントがもたらす利益を考えれば、質素に過ぎるものでもあったのだが。 自宅に戻る時間が惜しいので、事務所にある簡易ベッドで数時間の仮眠をとるという瞬を仮眠室まで送った氷河は、彼自身が自宅に戻るために、深夜のオフィスビルの廊下をエレベーターホールに向かって歩いていた。 「……ん?」 他の部屋は全て照明が消えているというのに、煌々と灯りの点いている部屋がある。 経理や庶務を担当している所員がこの時刻にビル内に残っているはずはないし、瞬以上に睡眠時間のない紫龍がまだ仕事をしているとも思えない。 おそらく、紫龍が照明を消すのを忘れたのだろうと思い、氷河は灯りを消すために、その部屋のドアを開けたのである。 予想に反して、そこには人がいた。 この事務所の社長にして、瞬の敏腕マネージャーでもある長髪の男が。 彼は、オフィスの壁際にある会議用の長机の上に積まれた手紙の山と、静かに格闘していた。 「何をしているんだ、貴様」 紫龍の方は、氷河がまだこのビル内にいることを知っていたらしく、突然現れた金髪の男に驚いた様子は見せなかった。 「見てわからんのか。ファンレターのチェックだ。たまに瞬に見せられない手紙が混じっていることがあるんでな。いつも笑ってるのが不愉快だとか、まともに歌も歌えないくせにでしゃばりすぎだとか、子供は学問が本分だとか」 「…………」 見れば、紫龍の足許には小さなダンボール箱が置いてあって、その中に数通、おそらくは紫龍のチェックに引っかかったとおぼしき手紙が投げ捨てられている。 「そんな手紙が来ることがあるのか? 瞬は……あんなに頑張ってるのに……」 日本全国津々浦々、老若男女を問わないどころか、サルでも知ってるスーパーアイドル。 その笑顔には地球を5回破壊できるほどの威力があり、デビュー以来、好感度NO.1タレントの地位を誰にも譲ったことのない、可憐な天使。 それが氷河の知っている、瞬の一般的な世評だった。 氷河も、それには異論を覚えない。むしろ、世の評価以上に、瞬は善良で努力家な少年だと、氷河は思っていた。 だが、その瞬ですら――全ての人に愛されているわけではないのだろうか。 人間の感じ方や価値観は人それぞれだとは思うが、テレビや雑誌で見ている限り、人が瞬に悪意を持つ根拠は皆無のはずだと、氷河には思われる――のに。 「ふん。ひねた人間はどこの世界にもいるもんさ。幸せそうな人間や成功しているように見える人間を見て妬むんだ。幸せなだけの人間がどこにいる? 他人の幸福を妬んでいる暇があったら、自分で自分を幸せにするための努力をすればいいものを、そんな馬鹿の手紙を瞬に読ませるわけには……なんだ?」 チェックしなければならない山積みの手紙から視線をあげることなく、吐き出すようにそう言った紫龍が、ふいに顔をあげて氷河にその視線を向けてくる。 「貴様、瞬のスキャンダルを嗅ぎまわっていたんじゃなかったのか?」 「…………」 紫龍は、しかし、すぐにその視線を再度彼の手の中にある手紙の上に戻した。 「ないぞ。そんなものは。どこぞのゴシップ雑誌の雇われカメラマンなんかと違って、瞬は毎日殺人的に忙しいんだ。言い寄ってくる男や女は、俺が全部撃退してるしな」 そう言いながら、選別した“不合格”レターをダンボールに投げ捨てると、彼はそれを箱ごと、オフィスの隅にあるシュレッダーの方に運んでいった。 そして、辺りに低い音を響かせて、その手紙を裁断する。 瞬があんなにもファンのために――ファンという名の赤の他人のために――頑張れるのは、瞬が頑張れる環境を整えているこの男の後押しがあるからなのかもしれない。 これまで、氷河にとって、紫龍は、皮肉屋で、人使いが荒く、癪に障るだけの男だった。 が、今の氷河は、瞬のために毎日何かをすることのできるこの男が羨ましくてならなかった。 |