氷河は、瞬を守るという己れの職務に勤しんでいる幸運な男をその場に残し、無言で廊下出た。 彼に比して、ありもしない瞬のスキャンダルを探り出そうとしている自分の立場が、哀れなものに思えて、氷河はひどく惨めな気分を味わっていた。 そして、氷河は、廊下に出たところで、深夜のオフィスビルに紫龍とは別の小さな人影を見い出したのである。 今、氷河がいちばん、自分の惨めな姿を見られたくない相手が、そこに立っていた。 「……あ…あの、僕、眠れないから何か飲もうと思って」 氷河の背後にあるオフィスのドアと、そのドアの向こうにある灯りとに、瞬の視線は向けられている。 そこで、誰によって何が行われているのかを、瞬は知っているようだった。 知っているのだということに気付いて、氷河は、胸の内で舌打ちをした。 今は、自分の惨めな立場に呑気に傷心していていい時ではないのだ。 しかし、こういう時に限って、気のきいたセリフの一つも思い浮かばない。氷河の口から出てきたのは、 「気にすることはない……」 という、情けないほどにありふれた言葉だけだった。 「はい……」 瞬が、力無い笑みを浮かべて頷き、それから、とぼとぼと仮眠室に向かって歩き始める。 そんな寂しげな後ろ姿を見せられて、このまま瞬を一人にしておくことなどできるわけがない。 氷河はすぐに瞬の後を追い、瞬が閉じようとしていた仮眠室のドアに手をかけた。 「瞬……!」 瞬がそれでも――そこに氷河がいることを知っていても――ドアを閉じようとしたのは、おそらく、彼が氷河に泣き顔を見せたくないと思っていたからだったのだろう。 「瞬……」 気遣わしげに名を呼ばれると、瞬は、辛そうに眉根を寄せて、自分のスキャンダルを探るためにそこにいる男の顔を見上げ、そして見詰めた。 「……わかってるの。人の心はみんな同じじゃない。僕が同じように笑って見せても、それで励まされる人もいれば、不愉快になる人もいる。全ての人の力になりたい…なんて無理な話だってことくらい、わかってるの。本当にそうしたかったら、僕はテレビの画面から出て、ステージをおりて、それぞれの人の話を聞いてあげて……」 だが、その方法では、瞬は、今のように数百万、数千万単位の人間に影響を及ぼすことはできないのだ。 「僕だって、僕だって、たった一人の人だけをなら、きっときっと幸せにしてあげられるのに……!」 すぐ目の前にある胸が、自分を抱きしめるためにそこに存在しているのだということに、瞬は気付いたらしかった。 一瞬ためらうような表情を見せはしたが、氷河がそれを待っていてくれることを見てとると、瞬はすぐに氷河の胸に飛び込んできた。 氷河は、そして、声をあげずに泣く瞬を、しっかりと抱きしめたのである。 抱きしめながら、氷河は、瞬のその“たった一人の人”になりたいと、心底から願った。もちろん、その願いを言葉にすることは、彼にはできなかったが。 数百万、数千万の単位で人を幸せにできる瞬に、それは言ってはならない言葉だった。 言ってはならないことなのだと、氷河は思ったのだ。 「おまえが、あんな心無い輩のすることに傷付くことはない。おまえが優しい心の持ち主だってことは、大抵の人間が感じとれているんだ。あの鬼マネージャーだって、おまえの一生懸命な気持ちを知っているから、おまえを傷付けないために、あんなことをしているんだし……」 何と言って慰めれば瞬の心が癒されるのか、氷河にはわからなかった。 それは仕方のないこと――ではあるのである。 全ての人に愛される者など、この世には存在しないのだ。人は時に、神をすら憎む生き物なのだから。 瞬にいつもの笑顔を取り戻させてやりたい――そう思う一方で、しかし、氷河は、瞬にずっとこのままでいてほしいとも思っていた。 瞬が悲しんでいる間、瞬は氷河の腕の中にいる。 瞬が泣いている間、瞬は多くの人に愛されるスーパーアイドルではなく、氷河だけの瞬でいてくれるのだ。 だが、氷河の至福の時は、あっと言う間に過ぎ去っていってしまった。 間もなく瞬は泣きやみ、そして、その顔にいつもの微笑を浮かべたのである。 「……ありがとう、氷河。やだな、僕、ちゃんとわかってるのに。僕が笑っていられるようにするために、紫龍や兄さんや色んな人が僕を守ってくれてることも、僕がステージに立っていられるのは僕だけの力じゃないんだってことも」 (兄……?) 瞬にそんなものがいるのかと思い、そういえば、以前にも瞬から兄のことを聞いたことがあったような気がして、氷河は記憶の糸をたぐり寄せ始めた。 が、彼はすぐにその作業を中断したのである。 そんなことは、今の氷河にはどうでもいいことだった。 他に、瞬に告げたいことが、今の氷河にはあったのだ。 「俺も……」 「え?」 「俺もおまえを守ってやる」 氷河のその言葉に少しばかり驚いたように、瞬が氷河を見上げる。 「おまえを見ていると……」 守ってやりたいという力が湧いてくるのだ。 氷河は、恋に落ちていた。 日本中に、その存在を知らない者はいないほどのスーパーアイドルに。 恋をしている自分自身を初めて自覚した。 |