氷河がどれほど強く抱きしめても、瞬は口をきいてくれない。
怒りも悲しみも微笑も涙すらも見せてはくれない。
無表情に、ただ生きて存在する白い鳥。

だというのに、何故そんな瞬がこんなにも美しいのか。
そして、愛おしいのか、氷河には合点がいかなかった。
氷河が好きになった瞬は、優しい心を持ち、それによって対峙する者の心までをも暖めてくれる、春の野に咲く花のような存在のはずだった。

「瞬、許してくれ。俺はおまえを傷付けることができなかったんだ」

今、氷河の腕の中にいる瞬は、氷の花よりも冷たい感触で氷河の心を包む。

「おまえに生きていてほしかったんだ。どんな形ででも、おまえに生きていてほしかった」

熱い身体とは対照的に、その心は冷え切っている――ように感じる。

「そして、おまえの側にいたかった」

それでも、そんな瞬が愛しいのは、瞬が――瞬が、感情の片鱗も見せてくれなくなったのは、自分のせいだと思えるからなのだろうか。


「あ……」
瞬が小さな声を洩らす。
氷河の言葉に反応したのではなく、その愛撫に反応して。

そんなふうにしなければ、氷河はもう瞬の声すら聞くことができない。
瞬は自分を抱きしめている男に、自分から語りかけようとはしない。

「瞬、俺は死んだ方がいいのか。そうすれば、おまえは自由になれるのか」

春の陽射しのようだった笑顔も、真夏の夜のようになまめかしい情熱も、小春日和の穏やかさもそこにはなく、瞬はまるで凍てついた真冬の湖のように冷たく氷河を拒否する。

「その方がおまえはいいのか。身体だけ生きているよりも、身体を失っても心は自由な方が?」

「ああ…っ!」

瞬の腕が――闇の中で暮らすようになってますます細くなった白い腕が――氷河に絡みついてくる。

「瞬、だからなのか? だからおまえは俺に身体しか預けてくれないのか? 笑ってくれなんて贅沢はいわない。怒るのでも泣くのでもいい。俺に感情のかけらだけでも見せてくれ……!」

氷河の声――言葉は、もう瞬には聞こえてない。
瞬の身体が氷河の身体を欲しがっている。

――それだけなのだ。

氷河は、そして、今瞬が求めるものならば与えられる。


あの時は、できなかった。
瞬の求めに応じることは。



『僕を殺して』

『氷河、僕を殺して』

『でないと、僕は、ハーデスに心も身体も支配され、この手で世界を壊してしまう』

『氷河、お願い』


氷河には、できなかった。



そして、

『アンドロメダを取り戻したいのだろう?』

『アンドロメダをその手に抱きたいのだろう?』

『余のしもべとなれば――』

『アンドロメダの身体と心を解放してやろう』

『そなたが、アテナよりこのハーデスを、地上の平和よりアンドロメダの命を選ぶなら』

『解放してやろう、おまえのアンドロメダ』

――と、瞬の顔をしたハーデスに言われた時。



我慢ならなかったのだ。

瞬の瞳が瞬のものではない輝きを呈し、

瞬の唇が瞬のものではない言葉を紡ぎ出すのが。


どちらにしても、ハーデスは地上を滅ぼすだろうと、氷河は思った。
ハーデスでなくとも、いずれは誰かが、あるいは地上に住む当の人間たちが。

その時まで、瞬を抱いて過ごしたかった。


瞬を――よりにもよって瞬を奪われたことで、氷河は冷静な判断力を失っていたのだったかもしれない。
ハーデスにその身を支配されているのがアテナその人であった方が、氷河は余程冷静でいられたのかもしれない。



そして、氷河はハーデスの提案を受け入れたのだった。





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