「アテナがこちらに向かっている」

氷河は、時間の感覚を失いかけていた。自分が冥界にとどまってから随分長い時間が経ったような気もするが、実際には、氷河が考えているほどの時も日も過ぎてはいなかったのかもしれない。
いずれにしても、ふいに現れたハーデスが、氷河にそう告げたのは、瞬の心が地上と冥界の行き来を数百回は繰り返した、ある日のことだった。

「余が冥界で大人しくしているのが不思議なんだろう。余がこんなに面白い玩具を手に入れて毎日を楽しく過ごしていることなど、アテナは知りもしないのだからな」

ハーデスの言葉は半分は真実であり、半分は嘘だろう――と、氷河は思っていた。
他人の苦しみを楽しむ人間が、自分が生きて存在することを真に楽しんでいるはずがない。

氷河の考えがわかったのか、ハーデスはまるで自分が強がっていることを隠すかのように、挑戦的に言葉を継いだ。

「アンドロメダの兄を伴って」

――氷河は、疲れ果てていた。
瞬の兄――が、冥界にやってくると知らされたことを驚く力もないほどに。
瞬の心が閉ざされているという事実が、それほどに彼から生気を殺ぎ取ってしまっていた。

それでも氷河は、気力の失せた身体と心に残る思考力で考えた――期待した――のである。

冥界での自分の所業を知った一輝が、自分を殺してくれるかもしれない――と。

弟を闇の呪いで縛る悪魔を打ち倒す正義の騎士のように。 
彼の弟を闇の世界に縛りつけ、解き放ってやることができずにもがき苦しんでいる悪魔を、あの男なら。

そうして、今度こそ瞬はその鎖を解かれ、兄の許に、仲間の許に、瞬に似つかわしい光に満ちた世界に戻っていけるのだ。

驚くより、怖れるより、嘆くより、氷河は安堵していた。
アテナと一輝が、瞬を縛る、既に悪魔自身にも解くことができなくなっている呪いを解いてくれるのだ――と。

それで、瞬は幸福になれる。
あの暖かい笑顔を浮かべる瞬に戻れるのだ、と。





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