「氷河、まだ僕を殺せない?」

ハーデスの立ち去ったその空間に、突然響いてきた瞬の声に、氷河は――何事かに驚く気力さえ失っていたはずの氷河は――驚愕した。

永遠の時を経た後に聞くような、懐かしい、優しい、悲しい、瞬の声――と心とに。

抜け殻が横たわっていたはずの寝台に、いつのまに戻ってきたのか、“心”を伴った瞬が身体を起こし、憂いがちな瞳で氷河を見詰めている。
『僕を殺して』と、氷河に訴えた時と同じ色の瞳で。

「もうわかったでしょう? 氷河が欲しかったのは、必要としていたのは、僕の命じゃなく――」

だから、『殺せ』と瞬は言うのだろうか。
もうすぐ、間もなく、この呪いを解いてくれる正義の騎士がこの場にやってくるというのに。

「……それでも殺せない。俺の手では」

氷河の返答に、瞬はその瞳から小さな宝石の粒のような涙の雫を宙に散らした。
「じゃあ、僕はまだ沙織さんや兄さんの前に姿を見せられない」

全てが終わる。
呪いは解ける。
何もかもが、幸福な終焉へと向かっている――。

そう思い安堵していた氷河に、瞬の言葉は衝撃と混乱を運んできた。

では、どうなるのだ。
全てが終わり、自分という存在が静寂の中に埋もれ、その後で――瞬が、あのやわらかな笑顔が取り戻してくれる――という、どうしても叶ってほしい自分のただ一つの“夢”は。


「瞬、おまえが俺を殺してくれ。そうすれば、おまえを闇に繋ぐものは消える。俺は……」
言いたくはなかったが、それは事実である。
氷河は、一度唇を噛んでから、その言葉を瞬に告げた。

「俺は、おまえに呪いをかけている悪魔だ……!」

「…………」

瞬は、氷河のその答えを聞いても、しばらくの間無言だった。
それは、望んではいなかったが、予想していた答えではあったのかもしれない。

痛みを自覚するほどに苦しげな氷河の眼差しに耐えるように、瞬はか細い声で呟くように告げた。
「……殺せないの、ごめんね、氷河。僕も氷河を殺せないの。氷河と同じ理由で、僕は氷河を殺してあげられないの」

瞬はまるで、搨キけた人形のようだった。
しかし、この人形は暖かい涙を零す。

「氷河を殺せれば、僕を縛るものはない。僕はみんなのもとに帰れるのかもしれない。僕が生きていることを知ったら、みんなは喜んでくれるだろうとも思う。僕の罪と弱さを許して、きっと優しく迎え入れてくれる」

生きているのだ。

「でも、できないの」

この人形は。

「それがみんなのためなのに……。そうすることで、僕は、僕を失ったと思って悲しんでいる人たちを幸福にできるのに……」

暖かく哀しい心を持って、生きている。

「だって、僕は氷河も大事なの」

「瞬……」

「ごめんね、氷河。僕はあの時、自分にできないことを氷河に望んだの。それでこんなに氷河を苦しめた。みんなを悲しませた」

「おまえは、俺を憎んでいるんじゃないのか」

だからこそ、瞬は、物言わぬ人形になって自分に抱かれ、光に焦がれる白い鳥になって光のある場所へ飛び立っていくのだと――氷河は思っていたのだ。

しかし、瞬は小さく横に首を振った。

「僕は……僕は自分では何もせずに、氷河と地上の平和の両方を手に入れて――闘いのない場所で氷河と一緒にいられることと地上の平和とを二つとも手に入れて、だから……だから、自分に罰を与えずにいられなかったの……」

では、瞬が白い鳥になって冥界から飛びたち、

「恐くてできなかった……。氷河が僕を選んでくれたことを喜ぶことも、氷河が僕を抱きしめてくれるのを幸せだと感じることも」

そして必ず帰ってきていたのは――。



「どうして人は……選べないものを選ばなきゃならない時があるんだろうね……」


「僕は氷河を選んでしまった。氷河は僕を選んでしまった」


「僕たちは、選ぶものを間違えたんだろうか――?」



「瞬……」

氷河は、瞬を抱きしめた。
この地下の世界で、本当に、初めて、その心と共に瞬を抱きしめた。

至福の地で、
悲しみと苦い後悔に苛まれながら。

瞬の涙と心と感情とが氷河の手の中にあり、
それを実感できる。

自分たちが、払いのけることのできない悲しみに包まれているのがわかる。

だが、それでも、氷河は幸福だった。





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