「つまり、おまえはずっと自分の幸せに安穏として浸っていたわけだ。おまえを地上の平和のために犠牲にしてしまったと悔やむ俺やアテナの気も知らず」 正義の士の言葉には仮借がなかった。 呪いを解いてもらうはずの白い鳥が、兄の峻烈な言葉の前に力なく項垂れる。 「……そうです。ごめんなさい、兄さん。僕は幸せだった。幸せでいることに罪悪感を感じてた。だから、不幸でいなきゃならないと思ったの。不幸な振りをしていなきゃならないんだと思ったの」 一輝の横で、沙織が瞳に涙を浮かべている。 一輝の糾弾など、彼女には聞こえていないようだった。 彼女はただ、失われたと思っていた彼女の聖闘士たちが生きていてくれたということだけで、胸が一杯だったのだ。 「僕はいつも思ってた。誰も傷付けたくない、誰かを傷付けるくらいなら自分が傷付く方がどんなに楽だろうって」 その沙織と兄の前で、瞬は、まるで懺悔をするように、自分自身を責めるように、言葉を紡ぎ続けていた。 「僕は、だから、兄さんにも氷河にも僕を殺してって頼んだの。それがいちばん楽な方法だったから……。それは、兄さんや氷河を苦しませることで、兄さんや氷河を僕の代わりに戦わせることで、なのに、そんな卑怯なことをしておきながら、僕は、自分の弱さを“犠牲”という美名の陰に隠してしまえる。僕は弱かった……どうしようもなく弱かったの。あの時、僕は自分で――自分の力でハーデスと戦うべきだった……」 「美しい言葉だよね、“犠牲”――って。そして卑怯な言葉だ。自分が死んで、自分の心を殺して楽になろうとする卑劣な行為だ」 「本当は――僕は一時的にでも自分自身をハーデスに支配されたことに罪を感じたからここにいたんじゃないの。僕は自分の幸せのためにここにいたの。ここには氷河がいたから。僕は、犠牲という言葉に隠れて、自分の幸せを貪っていただけなの……」 涙に暮れる瞬の言葉を、沙織が遮る。 それを、罪だと思うことが、彼女にはできなかった。 「本当に――そうなのなら、私は嬉しい。私はずっと、あなたと氷河は、アテナの聖闘士であるが故に、私と地上の平和のために犠牲になったのだと悔やんで……」 もしそれが罪なのだとしても、それは瞬の罪ではないと、“アテナ”は思っていた。 それは、“アテナ”の罪ではないのか、と。 「いいえ、やはり、そうなんだわ。あなたたちは、やはり犠牲になったんだわ。あなたたちが聖闘士でさえなければ、最初からそんな選択は迫られなかったのに……」 だが、瞬は、“自分の罪”を裁いてもらわなければならなかった。 そうすることでしか、自分が心の平穏を取り戻す術がないことを、瞬は知っていた。 「いいえ、沙織さん。聖闘士だってことは特別なことじゃない。“犠牲”は、聖闘士だけのための言葉じゃないんです。人は誰でも、聖闘士じゃなくても、色々な立場で色々な状況で選択することを余儀なくされる。それは聖闘士じゃなくても、誰にだって起こりうることなんです」 その選択は、時に、母という立場で、子という立場で、人の上に立つ者としての立場で、あるいは人に従う者という立場で為される。 そして、人は、自分のため、友のため、肉親のため、社会のために、何事かを選択するのだ。 「犠牲って、“不幸”という言葉と同じだと思います。自分がそう思わなければ、それは不幸でも犠牲でもないんです。誰かのために何かができる…って、幸せなことでしょう。それを犠牲だと思うことが、思いたがる心こそが不幸なのだと思います」 アテナの寛大と兄の苛烈という、二つの思い遣りの前で、瞬は顔をあげた。 「僕は犠牲になんかなっていない。自分の意思で、自分の意思を貫いて、氷河といることを選んだんです。『地上の平和のために僕を犠牲にした』って沙織さんや兄さんたちに思わせてしまったのなら、沙織さんや兄さんたちこそが、僕の犠牲になったんです。僕は結果的に――聖闘士であることから逃げただけだった……」 望むのは、裁きと贖罪の機会を与えられること。 “罪”から逃れていることの苦しさは、瞬は既に嫌というほど知り尽くしていた。 「僕は卑怯でした。自分だけが幸せでいました。ごめんなさい、沙織さん、兄さん」 起きたことを不幸と思うか幸福と思うかが、その出来事に対峙した人間の心次第だというのなら、瞬が『幸せだった』と言い切るその出来事には、不幸もまた混在していたに違いない。 純粋に幸せなことも、純粋に不幸なだけのことも、この世には、おそらく存在しないのだ。 「自分が幸せでいたことを――そう思っていたことを、謝罪する必要はないわ。本当にそうなのなら、本当にあなたが幸せでいてくれたのだったら、私は嬉しいわよ、瞬」 「この馬鹿が!」 「…………」 それでも、沙織と兄が自分を許して許してくれることは、瞬にはわかっていた。 その並外れた強さ故に。 人を責め攻撃したがるのは、いつの時も、自分が責められ攻撃されることを怖れる弱者だけなのだ。 二人の泰然としたその強さが、瞬は哀しく切なかった。 そしてまた、心地良かった。 強い人間というものは、いつも人の心を安らげてくれる。 弱さを持った人間には、そんな存在が必要なのかもしれない。 自分が真に強い人間になる、その時まで。 「ありがとうございます、沙織さん、兄さん」 |