「ふん。話が決まったら、さっさと光のある場所に戻るがいい。その幸せそうな面を、早く余の前から消せ。目障りだ」

沙織と瞬のやりとりを不機嫌そうに眺めていたハーデスが、吐き出すように言う。
氷河は、何故か今、彼に不思議な親近感を抱いていた。

ハーデスが地上の支配を求めるのは、彼が、彼の白い鳥を――彼が真に求めるものを見失ったから――なのではないかという思いが、ふいに氷河の胸に湧いてくる。

「おまえの白い鳥が見付かることを祈っている」
「余の白い鳥は永遠に失われてしまった……のだ、多分……」

ハーデスの言う白い鳥が何なのか、氷河には知りようもなかった。
だが、それが“誰か”だということだけは、氷河にもわかったのである。

人も神も――心を持つ存在にとっての幸福とは、権力や他者を支配することではなく、そんなふうなささやかなものなのかもしれない。

人の幸福はいつも、彼が愛する者の中に、宝石のように輝いて存在するのだ。


「ハーデス。あなたは地上でも生きていけるんでしょう? 僕たちと一緒に来ませんか? ここには、もう誰もいない。神だって……あなただって、一人ぽっちは寂しいでしょう?」

突然の、瞬の思いもよらない言葉に、ハーデスは目を剥いた。
この白い鳥はいったい何を血迷ったのかという表情で、冥界の王は瞬を見おろした。

しかし、それは瞬にしてみれば当然の提案だったのである。
ただ一人の兄からも、信頼し合った仲間たちからも離れて、罪の意識に苛まれ、それでも瞬が生きていられたのは、瞬が一人きりではなかったから――だったのだ。

「あなたにその気があるのなら、地上はあなたを受け入れますよ」

沙織までが瞬の提案に同調するのを、ハーデスは小馬鹿にしたように笑って拒絶した。

「馬鹿げている。余は冥界の王だぞ」

沙織が、そんなハーデスにひそりと囁く。
「でも、そうすれば、いつまでも氷河と瞬を見ていられてよ? あなたの可愛い白い鳥たち」
「いや、余は前向きになると言っただろう。余は、もう、代償は求めぬ」
「……そうですか」

アテナと彼女の聖闘士たちとの闘いで全てを失ったとはいえ、彼にはまだプライドというものが残っているのだろう。
沙織は、彼の最後の砦まで壊すことはできなかった。
自分を崇める存在を失った神から誇りまでを奪ってしまったら、彼が存在すること自体が難しくなる。
同じ神として――それは、ほんの少しだけ人間と異なる力を持つだけの存在なのだが――沙織には、彼に“幸福”を無理強いすることはできなかった。





そうして白い鳥たちは冥界という名の湖から旅立ったのである。
呪いで鳥たちを引き止め、自らの孤独を癒そうとした魔王を、湖のほとりに残して。


白い鳥たちの翼の軌跡を見送る魔王が、その時、悲しんでいたのか、あるいは微笑んでいたのか、魔王の影を映していた湖は永遠に語ることはない。






Fin.






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