「そんなとこでぼけっとしてないでよ、氷河!」 それが、氷河が最初に出会った異変だった。 一輝が城戸邸を出ていった翌日の午後。 瞬のその乱暴な声はサッカーボールと共に、氷河の脳天に直撃した。 瞬が、星矢にサッカーやらキャッチボールやらに付き合わされることは、これまでもよくあった。 昨日も、一輝が城戸邸を出ていくまで、瞬は星矢と一緒にボールを蹴っていた。 しかし、昨日までは確かに、こういう場合の瞬のセリフは、 「ごめんね、氷河。怪我してない?」 ――だったのだ。 それが――。 氷河があっけにとられていると、瞬はつかつかと氷河の許に歩み寄ってきた。 そして、その可愛らしい口許から飛び出てきた言葉は、 「氷河、それでも聖闘士なの !? サッカーボール1つよけられないなんて、なっさけないなぁ!」 ――である。 「…………」 そうは言っても、氷河はラウンジでコーヒーを飲みつつ、ゆったりとくつろいで、窓の外で雪に変わりかけている雨を眺めていたところだったのである。そこにサッカーボールが飛んでくることなど、いったい誰に予想できるだろう。 氷河は、コーヒーを零さなかっただけ立派だと誉めてもらいたいくらいだった。 それにしても。 星矢ならともかく瞬が、屋内でサッカーボールを蹴るなどという非常識をしでかすとは! ありうべからざるこの事態が、氷河にはすぐには信じられなかった。 が、信じるも信じないも、これは厳然たる事実である。 恐るべき事実、だった。 「こんなに運動神経が鈍くて、よく聖闘士になれたね、氷河!」 と毒を吐いた瞬が、氷河の足許に転がっていたボールを拾いあげ、そのままラウンジを出ていこうとする。 信じ難い光景に目を点にしていた氷河は、慌てて気を取り直し、瞬を引き止めた。 「しゅ…瞬、おまえ、大丈夫か?」 「大丈夫って、何が?」 「な…何が…って……」 さすがにここで、『頭の方は大丈夫なのか?』と尋ねるわけにはいかない。 氷河は、探りを入れるように瞬に尋ねた。 「おまえ……もしかしたら、一輝が側にいてくれないもんで、やけになっているんじゃないのか?」 こういう訊き方は瞬を傷付けることになりはしないかと懸念しながらの氷河のその言葉を、なんと瞬は鼻で笑い飛ばした。 「兄さんは生きていてくれるのに、僕がそんなことで落ち込んだりするなんて考えてるのなら、氷河ってとんでもないバカだね」 「…………」 その心を気遣って尋ねた者への、瞬の答えが、『とんでもないバカだね!』――。 それは、氷河の知っている瞬の持つ語彙ではなかった。 氷河の知っている瞬は、死んでも他人をバカ呼ばわりするような人間ではなかったのだ。 驚き呆れている氷河に、瞬が更に言葉を継ぐ。 「僕の代わりに送られたデスクイーン島で、兄さんが僕の身代わりに死んでしまったと思っていた時とは状況が違うし、それに、今の僕は、氷河にゴキブリ握らされたと思って泣いてた子供の頃の僕とも違うんだ!」 「…………」 サッカーボールを小脇に抱えてきっぱりと言い放つ瞬に、氷河は軽い目眩いを覚えた。 そして、それと同時に長年の疑念が氷解したのである。 まだ幼い子供だった自分が、瞬を励ますためにのために苦労して探し出したクワガタムシ。あの年頃の男の子なら誰もが喜ぶはずの贈り物をもらったというのに、瞬が、突然、まるで火がついたように泣き出した訳を、氷河は今になって知ることができたのだった。 (あのクワガタをゴキブリと思って泣いたわけだ、瞬は) あの頃の自分は、そんなふうに思われても仕方がないような悪ガキだっただろうか――と、かつての自分の姿を記憶の中から思い起こそうとしかけた氷河を、瞬の挑戦的な笑みが遮る。 「どう? 今なら、ゴキブリなんて生息できないシベリアで長く暮らしてた氷河の方が驚くんじゃない?」 「なに?」 一瞬、何を言われたのかがわからなかった氷河に向かって、瞬がふいに黒い小さな塊りを投げてよこす。 「うわ…!」 氷河が慌てて振り払ったそれは、黒いゴム製の昆虫の玩具だった。 「ふ……あはははは…!」 氷河のその仕草と、投げつけられたものの正体を知った時の様子がおかしかったのか、瞬が、らしくもない高笑いをラウンジに響かせる。 『繊細で心優しい瞬』のイメージをぶち壊すその呵々大笑に、氷河はひたすら唖然とするばかりだった。 「あれが……瞬?」 ――と、瞬が立ち去ったラウンジでただ一人、氷河は我知らず呟いてしまったのである。 |