その日、氷河は妙にめかしこんでいた。
略装ではあったが、普段はしめたことのないネクタイをしめ、上下鈍色のスーツを着用。
それがリクルートスタイルに見えないのは、洋装に適した彼の肩幅と金髪、そしてタイがブラックだったせいでもあるだろう。

瞬にも、当然それなりの格好をさせた。
こちらは濃紺のスーツで、タイは臙脂色。
それが七五三スタイルに見えないのは、瞬が十代半ばの少年だったからである。


氷河はその日、瞬を某高級おフランス料理店にエスコートするという重大な役目を負っていた。
目的は、ワンコース5万円というディナーではなく、そのコースのラストに登場するはずのデザート――すなわち、ケーキ――である。

フランスに本店のあるフランス料理店から、デザート部門の主席シェフが来日しているという情報を入手した瞬が、毎日遠くを眺めては、
「食べたいなぁ……。オーギュスト・リュミエールの作ったケーキ……」
と、溜め息をついている様を見せられて、ここは瞬の望みを叶えてやるのが男の道! と堅く決意した氷河だったのだ。

「でも、僕、フランス料理ってマナーうるさくてあんまり好きじゃないから…」
と微妙な言い回しで遠慮する瞬を、
「個室を予約してある。料理の説明も不要と伝えてあるし、多少のマナー違反はバレないさ。メインを半分残せばいい。ケーキは俺の分もやるから」
そう言って口説き落とし、氷河はめでたく、
「あ……ありがとう、氷河!」
という、瞬の感謝の言葉と熱い抱擁をば手に入れたのである。

氷河にとって、ケーキは、ある場面では非常に手強い恋敵だったが、ある場面では実に利用価値のある食べ物だった。
瞬が沈んでいる時、機嫌の悪い時、さりげなくケーキを差し出すと、瞬は即座に浮上し機嫌を直してくれる。

ケーキそれ自体は何の意思を持っているわけでもなく、命すらない。
だというのに――野に咲く花のように無心にそこに存在するだけだというのに、これほどまでに瞬に――そして、瞬以外の多くの人間に――愛され、かつまた多くの人々を幸福にする祝福された存在。

その利用価値と存在意義を認めつつ、それでも、氷河がケーキに妬ましさを感じることがあるのは厳然たる事実だった。


が、それはともかく何であれ、めでたく瞬とのデートのお膳立ては相整った。
今日ばかりは、氷河の胸中にケーキへの妬心はひとかけらも存在しなかったのである。





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