今は病室となった氷河の部屋から医師たちが退室する。 少し遅れて廊下に出てきた沙織は、沈鬱な表情の紫龍と、心配顔の星矢と、そして、どこから何をどう見ても怒っているようにしか見えない氷河の灰青色の瞳とを見あげて、小さな溜め息をついた。 「傷は消えました。でも」 「でも?」 「精神的にかなりまいっていたのね、瞬は……。今まで普通に暮らしていられたのが不思議なくらい」 「手の傷……というのは?」 怒りのために――何に対する、誰に対する怒りなのかはともかく――口をきけずにいる氷河の代わりに、紫龍が沙織との応答を受け持つ。 紫龍自身は、瞬の手の平の傷痕を実際には見ていなかった。 「ああ、あれは……。スティグマなどではないの。あれは奇跡などではなく、瞬の罪悪感が作り出した傷痕よ。自分の手は血に染まっているのだと、瞬はずっと思っていたようね。以前からそういう意識はあったのでしょうけど、冥界でのことがあってなおさら……。冥界で瞬が――いいえ、ハーデスが――傷付けたのは一人の敵ではなくて、地上の多くの人々だったから」 「…………」 それは瞬のせいではない。 瞬のせいでさえなかったら、誰のせいでも――自分のせいでもいいと、氷河は思った。 否、瞬のせいでも構わなかった。 瞬が、その痛苦を自分に訴えてくれるのなら。 瞬が、一人ですべてを抱え込もうとさえしないでいてくれるのなら。 「……マクベスだな」 沙織の口から瞬の手の傷痕の訳を知らされて、紫龍は痛ましげに呟いた。 「なんだよ、それ」 「シェイクスピアだ。自分の主君を殺したマクベスが、自分の手を見て言うんだ。『大海の全ての水をもってしても、この手を洗い清めることはできまい』」 『そんな血など、ほんの少しの水で洗い流してしまえる!』と、マクベスの妻のように、氷河は叫んでしまいたかった。 だが、彼には、もちろん、そうすることはできなかった。 瞬がそんなにも苦しんでいることに気付いてやれなかった己れの愚かさを、海の水ごときで消し去ってしまうことが可能だとも思えない。 そしておそらく、瞬を責め苛んでいる“罪”は、氷河にとっての愚鈍の罪と大して変わらないほどの大罪なのだろう。 「罪悪感が募って、器から溢れ出したのか、闘いが無くなったせいで逆に色々なことを考えてしまうようになったのか……。ここ数日ずっと痛みを感じていたようなの。昨日、手の平に血が滲んできたような気がして――」 沙織は、そこまで言って、氷河に向き直った。 「あなたに触れることができなかったのですって。あなたまで血で汚してしまいそうな気がして」 「…………」 瞬の血でなら、どれほど汚れても、氷河は構わなかった。 そもそも瞬の血は、氷河にとっては“汚れ”などではなかったのだ。 瞬の血――それも、瞬の瞳や唇や髪や手と同じように、自分のものだと、氷河は思っていたから。 |