ヒョウガが、前任のロシア大使の話が事実だということを、自身の目で確かめる羽目になったのは、それから数日後のことだった。 ヒョウガは、宮殿内の貴族たちの控えの間の一室で、若い貴族の男が、シュンに宝石を手渡している場に行き当たってしまったのである。 「我がジャンリ公爵家に代々伝わる家宝の指輪だ。見事なダイヤだろう? 君に捧げるために、父に内緒で持ち出してきたんだ」 ビロード張りの椅子に、両手で抑えつけるようにして、シュンを座らせているその青年は、よほどシュンに焦らされ続けてきたものらしい。 軽薄なフランス貴族の一員にしては、声に切羽詰まった響きがあった。 対して、シュンの声は冷淡でさえある。 「お金や宝石ならもう十分にいただきました。違うでしょう? あなたは、お金や宝石以外に何かもっと大事なものをお持ちでしょう? それをちょうだい。そしたら、僕、あなたのものになってあげてもいい」 「他に何があるというんだ !? 領地か? 地位か? 名誉か? それとも権力なのか !? 」 「あなたにはそれしかないんですか。大事なもの」 「あとはせいぜい私の命くらいのものだ!」 「じゃあ、それをちょうだい」 「私に死ねと言うのか! シュン!」 「死ねないの?」 「…………」 シュンの要求が残酷なのか、どれほど手に入れたいと思っていても、結局この宮廷での恋愛はゲームなのか、青年貴族はシュンの求めに声を詰まらせた。 そして、シュンは、そこで答えを返すこともできないような相手に興味はないらしかった。 「じゃあ、あっちへ行って」 「シュ……」 可愛さ余って100倍というところなのだろう。 シュンのために家宝を持ち出すことまでした青年の我慢は、そこが限界だったらしい。 シュンの腕を掴みあげ、彼はつい数刻前まで崇拝していた恋の相手を脅しにかかった。 「俺がおまえを嬲りものにしたところで、誰も俺を咎めたりはしないんだ。父が揉み消してくれる。貧乏貴族のこせがれが、さんざん貢がせておいて、最後はそれか!」 この場での二人のやりとりを聞いた限りにおいては、どう考えても非はシュンの方にあるようである。 しかし、開き直った青年貴族の乱暴を許すわけにもいくまいと考えたヒョウガは、二人の間に入っていこうとして、扉の前から一歩を踏み出した。 が。 「みっともない真似はよしてくださいね」 そんな修羅場に慣れているのか、青年の腕からするりと逃れ出るや、シュンは彼の鳩尾にその小さな拳をのめり込ませていったのである。 大した力が加えられたとも思えないが、青年はフランス貴族の柔弱さを証明するかのようにあっけなく、低い呻き声を発してその場に膝をついた。 その彼を見おろすようにして、シュンが慇懃に別れの挨拶を告げる。 「では、ご機嫌よう。ジャンリ公爵のご令息殿」 それは、ヒョウガにとっては、非がどちらにあるのかという問題を忘れさせられるほど意外な展開だった。 ヒョウガは、内心で快哉を叫んでしまったのである。 扉の前に立つロシア大使の姿に気付いて顔をあげたシュンに、ヒョウガは微笑さえ浮かべて告げた。 「助けに入って恩を売ろうとしたんだが」 シュンが瞳に驚きの色を浮かべたのはほんの一瞬で、彼はすぐに無感動に似た表情をその顔に装わせた。 「これくらいできないと、金も権力もない人間は自分の身を守れないところですから、この宮殿は」 確かにそうなのだろう。 この宮殿は、自身は何の力も備えていないというのに、権力という特権で他者を虐げる貴族たちの巣窟なのだろう。 それから更に数日後、質素な馬車を設えて初めてパリの街を訪れたヒョウガは、ベルサイユの絢爛とパリの街の悲惨との落差を目の当たりにして、シュンのその言葉を思い出していた。 |