パリの有り様は、ひどいものだった。

通りを歩いているのは、飢えて殺気だった市民たちばかり。
街のあちこちには、怒る気力すら失われてしまったかのように無気力な市民たちが数多くうずくまっていた。




「あそこが、シュンの兄の家か」

パリの下町に並ぶ家々の中では、際立って古く大きな建物ではある。
しかし、貴族の住まいがパリ市内にあるということ自体、その家が零落の道を辿って久しいことを物語っているのだ。フランス王家がその本拠地をパリからベルサイユに移して1世紀。
それは、王家に見捨てられた貴族の館なのだ。
ジョルジェ・オーギュスト・ド・クートンが、王室よりも、生活を同じくするパリ市民たちに心を寄せ、その貧しい生活を憂えたとしても、それは道理というものだろう。


ヒョウガは、その石造りの家の前の通りに、シュンの姿を見い出して驚いた。
ベルサイユ宮では質素に見える衣服も、ここでは華美を極めたものに映る。普通なら市民たちの袋叩きに合ってもおかしくないところなのだが、シュンの周りの貧民たちはみな、シュンに親しげな眼差しを向けていた。


「宮殿の厨房からかすめてきたものだから、僕の懐は痛んでないよ」
シュンはそう言って、貧しげな老婦人や子供たちにパンとチーズを手渡していた。

「シュンちゃんみたいな子が、あんな狼や豚共の巣窟で下働きなんて大変だろうに」
「役得もあるから。どっかのバカ貴族が落とした宝石を拾ってきたり、ね」 
「盗んできたのかい?」
「人聞きの悪いこと言わないの。どっかの狼の指に落ちてたんだよ」
「あんまり危険なことはしないでおくれよ。ここいらの連中はシュンちゃんのおかけで生きていけてるようなもんなんだから」
「大丈夫。ヴァルレさんちのおかみさんの様子はどう?」
「コリーヌのとこは、娘が病弱だから大変みたいだよ。薬も買えないしねぇ」
「そう……。じゃ、これを届けがてら見てくるよ」

パンを抱えて、貧民たちの輪の中から出てきたシュンの腕を、ヒョウガは馬車の扉を開けて掴みあげた。


最初、シュンは、自分を捕えた男が何者なのかに気付かなかったらしい。
ブルジョア平民などより余程質素な服を身に着け、粗末な馬車を設えた黒衣の男と、先日ベルサイユで錦糸の刺繍に縁取られた高価な上着を着ていたロシアの皇子とを結びつけることが、シュンにはできなかったのだろう。

「どっかの狼の指に落ちていたんだって? 大粒のダイヤが?」
「キ…キエフ公…! なぜ、あなたがこんなところに……」
それにはヒョウガは答えなかった。
自分のことを告げるつもりはない。

「彼等は、君が王や王妃のお気に入りだってことを知らないのか」
「……」

答えられないこと自体が、シュンの答えらしい。
ヒョウガは、呆れたように肩をすくめた。

「とんだ義賊だ」
「構わないでしょう。どうせ元はみんなから奪った税金なんだから」
そのからかうような口調が気に障ったのか、シュンが開き直ったかのように、ヒョウガに噛み付いてくる。
しかし、ヒョウガは、フランスの税制などには興味はなかった。
彼が興味を抱いているのは、今両手にパンを抱えてパリの下町に立っている少年と、その兄の活動――だったのだ。

「そのために金を持った貴族たちに恋を仕掛けているのか」
そういう理由なら、シュンがヒョウガをその標的に選ぼうとしないのにも、理屈が通る。
ヒョウガはフランス人ではない。
フランス国民の税金で贅沢な暮らしをしているわけではないのだ。

「そんなんじゃありません。貴族だって人間だ。その心を弄ぼうなんて考えていない」

シュンがなぜ、そこで反論してくるのかが、実はヒョウガにはわからなかった。

市民から不当に奪われたものを取り返している。
そのための手段は選んでいられない。
それでいいではないか。

だというのに。


「しかし、君のしていることはまさしくそれだ」
「……」

シュンが、ヒョウガの言葉に、今度は黙り込む。
その沈黙の意味もまた、ヒョウガには図りかねた。



と、その時。

「シュン!」

始めにヒョウガが目をとめたあの石造りの古い家から、若い男が二人、シュンのいる方へと足早に近寄ってきた。

その片方――長身でがっしりした体格の黒髪の男に、シュンの視線が向けられる。

「兄さん……」

(これがシュンの兄、か……)

シュンの小さな呟きで、ヒョウガはそれが本来自分が探りを入れるべき相手なのだということを知った。

シュンの兄の後ろから少し遅れてついてきた痩身の、どこか冷たい目をした美貌の男をちらりと見てから、ヒョウガはすぐに馬車に戻って、その窓を閉じた。
顔を知られると、この先まずいことになるかもしれないと思ったのである。






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