「兄さん…!」
「また、みんなに食べ物を分けてやっていたのか!」

シュンの、ある意味では善行とも言える行為を、シュンの兄は快く思っていないようだった。
馬車の中のヒョウガには、彼の声しか窺い知ることはできなかったが、その口調は確かに怒りを載せていた。


「何度言えばわかるんだ。おまえのしていることは焼け石に水、無意味なことだ。おまえは、自分の知り合いだけが助かればいいと思っているのか」
「……ぼ…僕はただ、目の前に困ってる人がいるから、それを……」

確かにへたに市民の不満が緩和されるのは、まずいのだろう。
市民の不満を煽って、革命を成し遂げようとしている者たちにとっては。
ヒョウガがそう考えて、シュンの善意(?)を気の毒に感じていると、もう一つの、少々艶かしい声が、シュンの兄の怒声を遮った。

「まあ、そんなに怒らないで。シュンちゃんはシュンちゃんなりに、みんなのことを考えてるんだから」

やわらかい響きでも隠しきれない、皮肉の色を含んだ声。
シュンの兄の後ろからついてきた痩身の男の声――らしかった。

「ふふふ。シュンちゃん、知ってる? アンセルムが自殺したんだよ」
「え?」
「奴を拒絶した? また、いつもの通り、大切なものは何と聞いたの」
「じ……自殺……?」
「あの馬鹿は、市民が飢えることのない暮らしだの、祖国の栄光だのって答えたんだろうね」
「……」
「そして、シュンちゃんはそれを捨てろと言った。そうしたら受け入れてやると」
「……」
「ああ、でも、シュンちゃんのせいじゃない。彼は自分の活動に行き詰まりと迷いを感じてたんだ。アンツが故郷に帰ったのも、ヴィラールが修道院に入ったのもシュンちゃんのせいじゃないんだよ」
「……」
「もともと迷いのある弱い連中だったんだ。救いを求めて、シュンちゃんにすがってみただけで、シュンちゃんに振られなくても、いずれは――」


皮肉――ではない。
その男の声に含まれているのは、冷酷だった。

シュンは、彼に何も答えることができずにいる。

その耳障りな声を遮ったのは、シュンの兄だった。

「フロレル。あいつらの離脱はシュンのせいじゃない」
「兄さん…!」
「奴等の弱さのせいだから気にするなと、シュンちゃんを励ましてあげてたんじゃないか」

しかし、フロレルと呼ばれたその男は、シュンの兄の低い声にも動じた様子は見せなかった。

「あいつらの気持ちもわかるさ。シュンちゃんは……ふふふ、恐い兄貴がついてなかったら、僕だって、抱いてみたいねぇ。ん? その時、シュンちゃんはどんな顔するの?」

「サン=ジュスト!」

それが、その若い男の苗字らしい。

「おー、恐い兄君だ。まあ、君があいつらの二の舞いを踏むまないことを祈るよ。君に限ってそんなことはないとは思うけど」

苗字で呼ばれることで、サン=ジュストはシュンの兄の怒りの度合いを悟ったようだった。
彼は、自分の口調を、冷酷よりは皮肉の勝ったものに変化させた。

「シュンちゃん、ここはいろんな意味で危険だから、さっさとあの醜い豚共のいる宮殿に帰った方がいいよ」

それだけ言い残して、足音が一つ、ヒョウガの馬車の側から遠ざかっていく。
その場には、シュンとその兄だけが残されたらしい。


サン=ジュストの足音がヒョウガの耳にも聞きとれなくなった頃、シュンが、恐る恐る兄に話しかける声が聞こえてきた。
「あの……僕、こないだ、アンセルムさんに……」

今、ヒョウガの横で――馬車の壁を一枚隔てた場で――、兄と対峙している少年は、大貴族の令息を冷たくあしらっていたあの少年ではなかった。
おどおどと気弱そうで、その声は、まるで飼い主に捨てられるのを怖れている生まれたばかりの子猫の泣き声のようにように頼りない。

「その話は聞きたくない」

ヒョウガは、その頼りない声を厳しく遮ってしまえる男の気が知れなかった。

「に…兄さんたちは何をしてるんですか。サン=ジュストさんの言ってた活動って何?」
「おまえが知る必要はない」
「…………」


シュンは、全く兄のしていることを知らされていないらしい。
ヒョウガには、シュンの兄のそのやり口もまた理解できないものだった。

ベルサイユに出入り自由の弟。
王と王妃の気に入りの小姓。
これ以上の情報源がまたとあるだろうか。
普通なら、自分たちの活動の内容を知らせて、協力させることを考えるのではないだろうか。

しかし、シュンの兄にそのつもりはないらしい。

「フロレルの言う通り、ベルサイユへ戻れ。パリは物騒だ。おぞましい豚共の住みかだが、確かにおまえはベルサイユにいた方が安全だ」

「兄さん……!」



冷たく突き放すようにそう告げて、シュンの兄は弟の前から立ち去っていった。






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