その嵐は予想以上に早く来た。


シュンがベルサイユへの伺候をやめ、ヒョウガの屋敷で暮らすようになってから数ヶ月後の7月14日。

一向に改善される様子のない食料難、経済危機と前年の麦の不作。
パリの民衆は、それでなくても一触即発の状況にあった。
そこに、国民に信望の厚かった大蔵大臣ネッケル罷免の報が飛び込んできたからたまらない。

それを、まっこうから王室が国民に挑戦状を叩きつけてきたのだと受け取ったパリ市民たちは、武装蜂起のための武器を求めて、バスティーユ監獄を襲撃した。

その襲撃は、おそらく、シュンの兄たち革命運動家の手を離れたところで起きた蜂起だったろう。
飢えた民衆は、革命家たち以上に性急で切羽詰まっていたのだ。




バスティーユ襲撃からひと月半後、国民議会は、人間の自由と平等とを謳いあげた人権宣言を採択し、貴族たちに与えられた特権を否定した。






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