そして、貴族たちの亡命が始まったのである。


毎日のように貴族の屋敷が襲われ略奪が行われたが、それを防ぎ罰する力は、国王にも議会にもなかった。
民衆が、ベルサイユ郊外にあるヒョウガの屋敷を外国人の屋敷だからと別に考えてくれるはずもない。
シュンは、一向にフランスを出る用意に取りかからないヒョウガに、焦りを覚え始めていた。


「ヒョウガ、今すぐロシアに帰ってください。フランスにいるのは危険です!」
「帰らない」
「ヒョウガ!」
ほんの1秒の間も置かずに帰ってきたヒョウガの答えを咎めるように、シュンは彼の名を叫んだ。

「おまえも一緒に来てくれるか。それなら帰国を考えてもいい」
「ヒョウガ…! これは、ヒョウガの命に関わることなんです!」

シュンの焦りとは対照的に、ヒョウガは落ち着き払っていた。
1分1秒の時間を惜しむシュンの気持ちを逆撫でするようにゆっくりした仕草で、ヒョウガがシュンの頬に手を伸ばしてくる。

「おまえは、兄のいる故国と俺のどちらをも選べまい。だが、俺は選べる」
「ヒョウガ……」


「俺は、故国より、自分の命より、おまえを選ぶ」

「……!」

それは、シュンがずっと望んでいた言葉だった。
兄に見捨てられたと感じたときからずっと望んでいたものだった。

自分だけを見てくれる人。
自分以外の何物も必要としない誰か――。

長い間望んでいたものを、ついに手に入れたというのに、だが、シュンは少しも嬉しくなかった。

少しも喜べない自分を知り、シュンは悟った。

(僕はこれまで誰も愛していなかったんだ。
 愛されることだけを望んでいた。
 兄さんに対しても、他の誰に対しても……)

だからこそ、自分のために全てを捨てろと要求することができた。
他の何よりも自分を選べと言うことができていたのだ。

自分自身がその選択を迫られた時、どちらをも選べないというのに。


「ヒョウガ、僕が間違ってたの! 僕がいけなかったの…! 僕なんかどうでもいいの。ヒョウガが安全なところにいてくれるのが僕の望みなの。ヒョウガ、僕は……!」

愛することを知って涙を流す少年に、愛されることを知った男は、笑いながら答えた。
「……愛されるというのは、確かに心地良いものだ。たとえ命の危険があっても、自分を愛してくれる者の側を離れようとは思わない」 

「ヒョウガ……」


未知のものだった愛情を知ってしまったことが、自分たちにとって不幸なことなのか、あるいは幸福なことなのか、シュンは、その時にはまだわからなかった。






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