花は、俺に寄り添ってきた
花ならば問題はなかった。

恋をしても。

口付けをせがまれても。


俺はためらった。
緑と白の絨毯の傍らで。

「そう……。ごめんなさい」
「瞬……」
「いい、もう来なくていいよ」
「瞬」
「ごめんなさいって言ったでしょう? もう来なくていい……って」

俺が瞬に触れることをためらった訳を、瞬はどう考えたのだろう。
瞬に誤解されることを怖れて、俺はその場から立ち去ることができなかった。

俺は、触れたかったから、触れられなかったのだ。

「どうせ、僕が勝手に……どうせ僕が一人で、氷河なら僕を人間に戻してくれるかもしれないって期待しただけなんだから……」

瞬を人間に戻すことは死を意味する。
ほんの数日――しかし、その毎日のほとんど――を、瞬と過ごしてきた俺には、もうそれがわかってしまっていた。

会おうと約した時刻の30分も前に、雪笹の群生の傍に来ている瞬。
それは、約束の時刻に遅れそうになっても、駆けてくることができないからなのだ。

「氷河は最初から僕を花だとわかってた。動けないみじめな花だってわかってた。僕を人間だと思ってなかった。だから……だから、氷河ならきっと……」

俺が瞬を楽しませようとして口にするジョークに、いつも静かに微笑むだけの瞬。
朗らかに屈託なく笑うことすら、瞬には許されていないのだ。

「今は、俺にも、おまえが人間だということはわかっている。だから、見ているだけじゃなく、抱きしめたいとも思っている。だが」

瞬は、人間と同じように愛してはいけない、そうすることのできない“花”なのだ。

瞬も、それはわかっているはずだった。
だから、俺の拒絶を責める言葉にすら、怒気を感じさせるほどの勢いは含ませない。
怒りを露わにすることすらも、瞬の身体には負担になるのだ。

「僕は死んだっていいの……。氷河に愛してもらえるのなら。氷河に、人間として愛してもらえるなら。愛してもらえないのなら、死んでるのと同じなんだから……!」

本当は、怒鳴りつけたいのだろう。
だが、生きていたいから、自然に瞬は用心をする。

血の通った花――人間。

そして、瞬は、花のように動けない身体に縛られているからこそ、肌で触れ合うこと、肉で愛し合うことに、他人より価値を感じているのだ。

「氷河は、今は、僕を人間として見てくれてるの」
「ああ」
「僕が好き?」
「ああ」
「僕のどこが好きなの」

「おまえは、花を……踏むのを避けた」

最初に俺の注意を引いたのは、瞬の姿の美しさより、その事実だった。
瞬は、花を――自分でない他者を――思い遣ることのできる花なのだ。

姿形だけなら、俺は、瞬よりも美しい花々を幾つもフィルムに収めてきた。
今では――この白い花への恋に落ちた今となっては――、かつて出会った花々が、瞬よりも美しいと感じられることはなくなってしまっていたが。


「なら、身体なんてどうなってもいいでしょう?」

言外にあるのは、
『死んでしまうのは身体だけだよ。氷河の好きになってくれた僕の心は死なないの』

瞬の言うことは、しかし、無理な話だった。
瞬は、俺の好きになった部分だけでできている存在ではないのだ。

「おまえの身体が死んでしまったら、俺はおまえの心にも声にも触れられなくなる」

瞬を取り乱させないように、なるべく穏やかな声音で、俺は瞬を諭した。

そして、そう告げているその瞬間にも、俺の身体の奥からは、瞬に触れ、瞬を抱きたいと訴える欲が熱を持って湧いてきていた。

いっそ瞬の望む通りに瞬を抱いて、その身に何かあったら後を追えばいいと考えるほどに、その欲は激しくて、我儘だった。


細い、白い、折れそうに頼りない可憐な花。
この花が、俺の愛に耐えられるはずがない。

一度瞬に触れたら――、俺の口付けひとつにも、瞬の身体は耐えきれないだろう。 

俺に愛されて、瞬が死なないはずがないという確信さえ、俺の中にはあった。


そして、俺は、瞬の命を失いたくなかった。






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