「兄さん」

ラウンジのドアの陰から、瞬の小さな声がした。
「氷河、まだ、怒ってる?」

瞬は、氷河の機嫌を損ねないように、悪化させないようにと気を遣って、そんなふうにしているのだろう。
その瞬の小さな声を一言も聞き逃すまいとして聞き耳を立てている氷河の気も知らずに。
今度の我儘で、瞬が自分に愛想を尽かしていたらどうすればいいのかと不安に苛まれている男の心中など知りもしないで。


掛けていた椅子から立ち上がってドアの前に歩み寄った一輝は、氷河に聞こえるように、わざと大きな声で言った。
「ガキの怒りはすぐ収まるもんさ。意地を張り続けて、おまえに愛想を尽かされるのを恐れてるんだ」

「僕は愛想を尽かしたりなんかしないけど……。氷河はすぐどっかに飛んでっちゃいそうで危なっかしくて……」
「すぐにおまえのところに降りてくるさ。根性無しだからな」
「そんな言い方……」


それでも、兄の言葉で氷河の不機嫌が静まりつつあることを悟ったらしい。
瞬は、ドアの陰から、ぴょこっと顔を覗かせた。
「氷河。おみやげ買ってきてあげるから、機嫌直してね」
「ライオンのお面なんかいらないぞ」
「“ユタと不思議な仲間たち”のチケット買ってくるよ。今度は付き合ってくれるんでしょう?」

「…………」

瞬の笑顔に逆らえる人間などいるはずがない。
少なくとも、氷河にはそれは不可能なことだった。

「も…もちろんだ」

瞬の明るい瞳に少し戸惑いながら、氷河はどもりながら答えた。
瞬が、その瞳を更に明るく、更に優しく輝かせる。


「うん。じゃあ、行ってくるね」
「……ああ」

それが緑にせよ黒にせよ、母なる大地に、誰が反逆を企てることなど考えるだろう。
氷河は、まるで母親に悪戯を許してもらった子供のように素直に瞬に頷いた。




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