「氷河、おはよう」 瞬は氷河に入館用のカードキーと部屋のキーとをもらっていた。 預かって落としでもしたら大変なことになると言って、キーを受け取ることを固辞した瞬に、氷河は、 「俺の部屋には盗まれて困るようなものは何もないぞ。また買えばいいだけのものしかない」 と、事もなげに答えたのだった。 長い廊下の突き当たりに、広い――物がないために尚更広く感じる――リビングがある。そこは、椅子はもちろん、テーブルらしきものさえない、だだっ広いだけの空間である。フローリングの床に、琥珀色の液体が少し残ったクリスタルのグラス、ノートパソコンが一台と、雑誌が数冊散らばっていた。 氷河は、このリビングを含めて5、6室ある部屋のほとんどを使っていない。 寝室として使っているいちばん奥の部屋だけで、生活のすべてを済ませていた。 「氷河?」 既に何度も訪れて、勝手は知り尽くしている。まっすぐに向かった氷河の寝室に、しかし、氷河の姿はなかった。 「氷河……?」 寝穢なく寝込んでいることはあっても、瞬が迎えに来た時、氷河が部屋にいなかったことは、かつて一度もなかった。 昨夜帰宅していないのではないかと不安になった瞬が、夕べ眠った跡があるかどうかを確かめようとして、氷河のベッドに近付きかけた時。 「瞬」 突然後ろから氷河の腕と声が瞬に絡みついてきて、驚いた瞬は一瞬全身を緊張させた。 が、すぐに安堵の息をついて、氷河の腕に手で触れる。 「あ、ちゃんと起きててくれたんだ」 「おまえが来てくれるとわかっているから」 でかい図体で、氷河は母親を信じきった子供のように嬉しそうにそう言って、瞬の髪に頬を摺り寄せてきた。 「毎日来るから、安心して」 その子供の心を安んじさせるために、瞬は意識して優しい声音を作る。 ここまでくるのに半年かかった。 以前は、瞬が迎えに来るたびに氷河はだらしない格好で寝込んでたし、瞬が迎えに来ても学校に行くのを嫌がった。 氷河を登校拒否児(登校拒否生徒ではない)と呼んでいいのかどうかすら、実は瞬は知らなかった。 なにしろ、瞬の在籍する忠律府高校に転校してきてから一ヶ月、氷河は一度として学校に姿を現さなかったのだ。 瞬が毎日、彼を学校に連れ出すために彼のマンションを訪れるようになるまで。 学校に、氷河の登校を妨げるような要因があるはずはなかった。 彼が以前通っていた高校で何があったのかは知らないが(瞬は尋ねることができずにいた)、転校してきた学校がどんな学校なのかすら、どんな生徒や教師がいるのかすら、彼は知らないのだから。 だから、なのだろう。 億劫そうな態度をとりはしても、瞬が学校へと誘う手を、氷河が強硬に拒むことはなかった。 瞬が登校途中で氷河のマンションに寄るようになってから二ヶ月ほど経った頃、瞬が高熱を出して三日間ほど寝込んでしまったことがあった。 無論、学校になど行けるはずもなく、その時には瞬は氷河に連絡を取る手段も持っていなかった。 氷河は部屋に電話も引いていなかったし、携帯電話すら持ち歩いていなかったのだ。 『緊急で連絡が必要なことなんて、ないだろう。親父が死にでもしたら、ネットの経済ニュースでわかるだろうし』 と言って。 熱が引いて何とか出歩けるようになった瞬が急いで氷河の部屋に行くと、氷河は土気色の頬をして、瞬に抱きついてきた。 「もう、見捨てられたのかと思ったんだ」 見知らぬ町で母親とはぐれ、不安に苛まれていた幼い子供のように。 おそらく、瞬が氷河の部屋を訪ねなかった数日間、氷河は一歩も外に出なかったに違いない。 瞬は、背中を丸めるようにしてすがってくる、自分よりも二回りも大きい、小さな子供の肩を抱きしめながら、幾度も同じ言葉を繰り返したのである。 「そんなことしないよ。僕はずっと氷河の側にいてあげるから。僕は絶対に氷河を見捨てたりしない」 ――と。 それ以来、氷河は驚くほど素直になった。 もっとも彼が素直になったのは瞬に対してだけで、彼の視界には瞬以外の人間はまるで映っていないようだったが。 他の誰も信じられない――が、瞬なら信じられる。 その瞬が『学校に行こう』と誘うから、学校に行く。 それがベストな状態だとは思わないが、事態は好転している。 瞬は、そう思っていた。 |