我ながら分別のないことをしていると、自分でも思った。
自分のダンサーとしての将来を考えたら、こんなことをするのは馬鹿げている――と。

だが、俺は見たかったんだ。
プロデューサーとしての氷河ではなく、舞踊家としての氷河を。
奴の踊る『春の祭典』を。


俺が、氷河に退団願いを提出したのは、『春の祭典』初演の2日前だった。
もちろん、瞬や氷河を困らせようとしたわけじゃない。

俺が初演直前に退団すれば、瞬は代役の立てようもなくて、当然、氷河が“青年”を踊ることになる。 
そうすれば、公演は間違いなく成功すると思った。

そして、俺は、その舞台を見たかった。


だが。

「では、この公演は中止だ」
事務所の机に俺の退団願いを放り投げると、氷河はあっさりとそう断じた。

「…………」
瞬が、困惑したような悲しそうな目を俺に向けている。
瞬は、俺が“青年”を把握しきれずに迷っていることを知っているのだから、俺を引き止めることの是非を判断しかねているのだろう。

「貴様が踊ればいいじゃないか」
俺は、わざと投げやりな口調でそう言った。
本音を言えば、『どうか、俺の代わりに踊ってください』と頭を下げて懇願したいところだったのだが。

「馬鹿が」
氷河の返答は、まるで唾でも吐き出すようだった。


「踊れるんでしょう」
瞬が泣きそうな目で、俺を見上げてくる。

瞬にそういう目で見詰められては、俺も虚勢を張り続けるのが困難になってくる。
俺は、なにしろ、この小さな天才に憧れて、焦がれて、故国を後にしてきたのだから。

「主宰の方が、俺よりいい作品にしてくれる」
氷河の前で、そんなことは認めたくなかった。
が、ただの我儘や気紛れで俺がこんな行動に出たのだと瞬に思われることは、それ以上に耐え難かった。

「ふん。そんな理由か」
俺と大して歳の違わない若造が、見下すように俺を一瞥する。

氷河は、掛けていた椅子から立ち上がった。
「瞬は、ダンスは世界共通の言葉だと思っているらしくてな。ダンスを通して、人と人は理解し合えるはずだという幻想を抱いているんだ。ダンスが、平和の実現のために一役買えると」

突然、今回の公演とは無関係な話を持ち出した氷河を、俺は訝った。

「だが、あいにく、俺は世界がどうなろうと知ったことじゃない。俺は瞬のためだけにしか踊れない」

「…………」

「馬鹿げてるだろう。踊りというのは、本来、己れの感情の発露だ。自分の内なる神への祈りだ。さもなくば、自分のつがいを得るための手段だ。それで、世界の平和がどうのこうのと言われても、俺には同感できない」

そうだろうか。
ダンスとはそういうものだろうか。
もし、そうなのだとしたら、劇場に客を呼んで踊りを見せる踊り手は、自分のための踊りを他者に披露して、代償に金を得ているだけのものになってしまう。


「俺はダンスの可能性は信じていないが、瞬は信じているから、瞬のために、瞬を思って踊ることはできる。だが、ダンスそのものや、まして文化交流だの世界平和だの、食えもしないもののために踊ることはできない。俺が『春の祭典』を全幕通して踊ったら、『春の祭典』はただのラブストーリーになってしまうだろう」

俺が踊るのは――自分だけのためじゃない。
誰か一人のためでもない。
俺が踊るのは――。


「でも、あなたならわかってくれるでしょう? ダンスは人を結びつけるものだよね。だから、あなたは、わざわざ北欧から、こんな極東の国まで来てくれたんでしょう? 僕の言葉が、あなたには聞こえたんだよね?」

初めて、瞬の振り付けた作品を見たのは、3年前のパリ公演。
俺は即座に来日を決めていた。


「あなたは、“青年”を掴めているの。氷河より、僕の作品を理解してくれているの。ただ、迷っているだけなの。氷河の方が完璧に踊れるんじゃないか……って」

俺には、瞬の言葉が聞こえていたんだろうか。

「でも、違うの。氷河は僕の作品は踊れないの。氷河は多くの観客のために踊れるダンサーじゃないから」

聞こえていたのだと、思いたい。



「氷河は、僕専用のダンサーなんだよ」






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