「瞬、これは命令だぞ。おまえのためを思って言うんだ。あの男とはもう関わるな」
「兄さん?」
「あいつはおかしい。おまえへの執着が病的だ」
「兄さん…」

突然前置きもなくそんなことを言い出した兄の憤怒の訳を、瞬はすぐには測りかねたようだった。

「だいたい、はなっから気に食わなかったんだ。あんな、おまえに庇われているだけの……」

言いかけて、一輝は、背筋にひやりと冷たいものを感じた。
もし、それすらも演技だったとしたら、氷河が弱いのは闘いの場でのことではなく、心の方だということになる。
否、弱いというより、彼は病んでいるのだ。


「そもそも、おまえはなんだってあんなのと関わり合いを持つようになったんだ…!」

一輝の怒りと心配をよそに、瞬の表情は、なぜか穏やかだった。
瞬は、兄の言葉に、目許にほのかな微笑さえ浮かべて見せた。

「氷河は……本当かどうかは知らないけど、僕がいないと生きてられないんだって」

瞬は、むしろ幸せそうに、そう告げた。
それが、一輝の神経を逆撫でする。

「そういうことを平気で言えるところが惰弱なんだ。あの恥知らずめが!」
「そんな言い方しないでください」
「俺はおまえを心配して言っているんだ」
「僕は大丈夫ですよ」
「大丈夫なものか。あの男は……」

自分の焦慮が、まるで弟に通じていないことに苛立って、一輝は瞬を壁に追い詰めた。
逃げられないように両手で、瞬の左右をふさぐ。

それでも、瞬には動じる様子が全く見えなかった。

「氷河は……なりふり構わないだけなの。病気なんかじゃない。自分のしてることの意味もちゃんとわかってるの」

「…………」

全てを――氷河の全てを――理解しているのだとでも言いたげな瞬のその声音は、一輝を驚かせるのに十分な力を持っていた。
瞬は、氷河の異常としか思えない行動とその理由を知っているのだ。

「兄さんにはわからないでしょう。兄さんは、決して自分のプライドを曲げない人だから」

呟くようにそう言って、瞬は、憤怒の色を瞳にたたえて、自分を壁際に追い詰めている兄を、臆する様子もなく見上げた。
そして、話し出した。


「――兄さんが生きて戻ってきてくれて、でもやっぱり僕たちの側にいられないって言って、ここを出ていこうとした時、僕は兄さんに行かないでほしかった。僕は、泣いて、すがりついて、それこそ、なりふり構わずに兄さんを僕の側に引きとめておこうとした。そうするつもりだった」

瞬がもう一度、今度は、少しばかり自嘲の気味のある微笑を作る。

「僕にはプライドなんかないから」

「…………」

その言葉は言葉通りではない。
瞬のプライドが、自分とは形の違うプライドなのだということは、一輝にもわかっていた。

「僕が兄さんのところに行こうとした時に、氷河が僕のところに来て、僕が兄さんにしようとしてたのと同じことを僕にしたの。俺を見てくれ、側にいてくれって……」

「泣きついてきたのか、あの馬鹿が」
同じことをしようとしていた瞬が、自分のその言葉を聞いてどう思ったかに思い至るだけの余裕が、今の一輝にはなかった。
『瞬を取り戻すチャンスは今しかない』という思いに、一輝は捕らわれていた。

「別に……氷河は泣いたり、わめいたりしたわけじゃないよ。いつもの通り、愛想のない顔で、棒立ちの棒読みみたいな――」

瞬は、その時のことを思い出したのだろうか。
不思議に切なそうに、それでいて幸福そうに目を細めた。

「でも、僕には、氷河が僕の前に跪いて懇願しているんだってことがわかったんだ」

「…………」


それで、瞬は氷河を拒絶できなかったのだろうか。
否、受け入れずにはいられなかったのだ。

自分と同じ形のプライドを持った男を。
同じ価値観に沿って生きている人間を――。






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