「助けて」

シュンの声の響きは、悲痛だった。

「父君と兄君とワラキアの民、ワラキアの国。あなたになら、その力があるでしょう…!」

ヒョウガが騎士の忠誠を誓っているワラキアの第二公子は、まだ15歳の誕生日も迎えていない。
扉の向こうから洩れ聞こえてくる幼いままの声が、ヒョウガの耳には悲鳴のように聞こえた。

「残念ながら、私にその力はない。私が力を使えるのは、人間の心と身体に対してだけだ。戦は、個々人の心ではなく――醜い心の集合体が起こすもの。私には、狂信の暴徒や兵をどうこうできるような力はない。それより、早く、ここから逃げなさい。君に死なれてしまっては、私が困る」
「逃げたりなどできません」
「君は死にたいのか」
「死にたくなどありません。でも、父や兄や他の者たちを見捨てて逃げる卑怯者にはなりたくない」
「君だけなら助けられるんだ、私は」

「大した力ですね!」

それまですがるような色合いの濃かったシュンの声が、突然、蔑みのそれに変わる。
ヒョウガが公子の部屋に入っていくと、そこにはシュン以外の何者の姿もなかった。


「どなたかとお話しでしたか」

「ヒョウガ……」

ワラキアの第二公子は、現ワラキア公とも第一公子とも全く似たところがない。
戦いに明け暮れて、玉座を温めている暇もない夫を待ち続けながら亡くなった、前公妃に生き写しと言われていた。

「いいえ、誰とも」
「しかし、何者かの声が」
「声? どこから?」
「…………」

こういう場面に――シュンが、姿の見えない何ものかと言葉を交わしている場面に――ヒョウガはこれまでにも幾度か遭遇していた。

事情は知らない。
シュンが話そうとしないものを無理に聞き出す気にはなれなかったし、従者であるヒョウガにその権利はない。
シュンのことだから、神か天使が降りてきているのだろうと、ヒョウガは勝手に考えていた。

そう考えることに何の不自然も感じないほど、ワラキアの第二公子の風情は無垢そのものだったのだ。

考え深げな緑色の瞳は、ワラキアが生き延びるためにワラキアが犯してきた殺戮と裏切りの罪を全て写し取り、その上で浄化してくれるかのような印象を――それは、シュンを見る罪人たちの願望なのかもしれないが――対峙する者に与える。

戦いに明け暮れる父と兄を、シュンはいつも非難していたが、二人はそんなシュンを溺愛していた。

『嫌われるほどに愛しさが増すんだ。あれが、俺や父を嫌うのは、俺たちの罪を悲しむ故だとわかっているから』
ヒョウガは、シュンの兄がそう言うのを聞いたことがあった。
それは、弟の許しが得られるのなら、神の許しなど毫ほどにも求めない――と言わんばかりの口調だった。
生き延びるための戦いを戦い続けるワラキアの者たちの、それは共通した思いだったろう。



「ワラキア公からのご指示です。公子殿には今すぐ公宮を退去、姉君のおいでになるハンガリーへ向かうようにと。公は……公子に、安全な場所で、再会の時を待っていてほしいと仰せでした」

「再会……」
「そうです」

それが、自分を公宮から脱出させるための嘘だということがわかったのだろう。
シュンが辛そうに眉根を歪める。
泣きそうな色のその瞳は、しかし、もう長いこと涙を忘れている瞳だった。
実際に、ここ数年、ヒョウガは一度もシュンの涙を見ていない。
涙を流さずに泣く術を覚えてしまったシュンが、ヒョウガには痛々しく感じられて仕方がなかった。

涙を忘れるほど、厳しい現実。
殺さなければ、殺される。
それがワラキア公国に与えられた、避けることのできない定めだった。

「父上のご命令……ですか」
「それだけが、"望み"だとおっしゃっておいででした」
――死にゆく者の。

「わかりました」
シュンが、微かに頷く。
そうしてから、シュンは、ヒョウガにすがるような眼差しを向けてきた。

「ヒョウガは……ヒョウガはついてきてくれるんですよね? 僕はヒョウガまで失うことはないんですよね?」

「そのようにご命令を受けました。供の者が私ひとりではお心細いかもしれませんが、これは大人数で動くわけにはいかないことですので」

「命令……だから」

ヒョウガの言葉の後半をシュンは聞いていなかった。
シュンは自分の身の心配などしたことはない――その必要がなかった――のだ、これまで、いつでも。

「高潔な騎士様は、主君を見捨てるようで心苦しいの? それとも城を枕に討ち死にせずに済むことが嬉しい?」

シュンの言葉には、いつになく棘があった。

“いつも戦ばかりしていて大嫌い”な父と兄――を失う予感。
決して訪れることのない、再会の時。
昔は二匹の子犬のようにじゃれあって遊んでいた幼馴染みの臣下としての堅苦しい態度。
そして、頼みの綱と思っていた“もの”の“力”は当てにならない――。

何が自分をこんなにも苛立たせるのか、シュン自身にもわかっていなかった。

まして、ヒョウガにわかるはずがない。

「公子は、父君や兄君と共にここで命を捨て、死んで楽になることを望まれますか。それとも、生の欲望に従って生き延び、更に苦しい時を重ねることを望まれますか」

しかし、今のヒョウガには、とにかく、シュンに脱出の決意を促すことの方が優先事項だった。

「…………」

どちらを選んでも、人は哀しいのだ。
シュンは力なく項垂れた。






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