「氷河! そっち行っちゃ駄目だってば……!」 その良真邸の中門から、突然、白いものが駆け出てきた。 そして、その後を追って、若竹色の狩衣を着けた小柄な少年が一人。 根結いにした長い髪がなびくほどの勢いで駆けてきた子供の追ってきたものは、白い猫だった。 「氷河というのはこれのことかな」 少将がその猫の首をつまみあげて尋ねると、少年は、突然門前に現れた見知らぬ男に驚いたように、大きく開いた瞳を少将に向けてきた。 頬がほんのりと上気している。 おそらくは、中門を出る以前に庭園で散々追いかけっこをしてきたのだろう。 「あ、はい。あの……ありがとうございます」 「変わった名前の猫だな」 「猫は気紛れだから、名前だけでも変わらないものをと思ったの。氷河って、決して溶けない氷のことなんですって」 白い猫を少将の手から受け取りながらそう言い、言い終えてから、子供は小さく首をかしげた。 自分が猫の名前の由来などを話している男の素性が、今になって気にかかってきたのだろう。 その様は、これから花の色に染まろうとしている桜の花びらのようだった。 少将は、十を一つ二つ超えたばかりの、しかも少年に見とれている自分に気付き、慌てて、左右に首を振った。 「あ、ここは小野良真殿の邸か」 「良真は兄ですが」 「兄?」 その返答に、少将はかなり意外の感を抱くことになった。 少将の見知っている小野良真は、相当に野趣が強く、とてもこんな可憐な弟がいるようには見えない男だった。 小野良真の妹姫と聞いたからこそ、小町が美女だという噂も眉唾ものに感じられた少将だったのだ。 「同腹の兄弟にしては、随分と歳が離れているように見えるな。確か、良真殿はもうすぐ――」 「二十五。僕とはちょうど十歳違いです」 「十五?」 少将が、その言葉にまた驚く。 自分の歳を十五と言い張る、しかしどうみても十二歳以上には見えないその少年は、少将の驚きを見てとると、つんと唇を尖らせて横を向いてしまった。 「子供に見えるって言うんでしょ! いいです!」 しかし、その可愛らしい子供は、すぐに、自分の無作法に気付いたらしい。 少将が詫びを入れる前に、少しきまりの悪そうな顔になって、少将に尋ねてきた。 「あ、兄にご用ですか。兄は今、御所の方に――」 「いや、用というほどのことではない」 「お名前は?」 少将には、無論、親が名付けてくれた名前があった。 が、少将はなぜか、この可憐な少年にそんな無粋な名を告げたくなかった。 「……そうだな、氷河とでも」 微笑しながら言うと、子供はまた馬鹿にされたと思ったのか、少し意地を張ったような目になった。 「それでは、ご用を取り次げません」 「いいんだ。君に会えただけで、わざわざ深草から来た甲斐があった」 「え?」 「衣通姫の流れだ」 少将は――氷河は――今度は感嘆の心を隠そうともせずに、少年を見おろし、見詰めた。 衣を通して、健康な身体と優しく素直な心が輝いて見えるような、幼い衣通姫。 実際に、少年の衣に覆われていない手や首筋は、華奢ではあったが健やかそのものだった。 運動不足のどこぞの姫君たちとは比べ物にならないほどに輝いていた。 氷河のその言葉に、しかし、氷河の衣通姫の瞳は、にわかに掻き曇ってしまったのである。 それが、紀貫之が小町を評して言った言葉だということを、少年は知っていたらしい。 「あの……小町が目当てなの」 「え? ああ、そう言えばそうだった」 一瞬ためらいを見せてから、沈んだ口調で彼は言った。 「あ……姉です」 「姉君? 君の?」 小野小町が美女だという噂は本当なのかもしれない――と、氷河は初めて思ったのである。 この少年の姉が、尋常の美貌の持ち主であるはずがない。 「会わせてはもらえないかな」 少年の可憐さに目が眩んで忘れかけていた当初の目的を、氷河はやっと思い出した。 「会ってどうするの」 「『衣通姫の流れ』というのが、美貌のことか歌の才を言ったものか、確かめたいだけなんだが」 「歌のことだよ! 小町なんかちっとも綺麗じゃない!」 「……君の姉上ならさぞかし美しいだろう」 氷河は、右の手で少年の顎を捉え、その顔を上向かせた。 見れば見るほど、その花は美しかった。 「君こそ、花のようだ」 「あ…あの……。僕、男です」 少年が、花びらのような瞼を伏せる。 どうやら、氷河の衣通姫は、氷河を姉に会わせたくはないらしい。 「ああ、まあ、いいさ。会うのは又の機会でも」 氷河は、少年の意に染まないことはしたくなかった。 氷河が微笑してそう言うと、しかし、氷河の衣通姫はふいに険しい表情になって、氷河に告げた。 「……いいです。小町に会わせてあげます」 ――と。 |