氷河が、北対の庭を出ると、そこに衣通姫が駆け寄ってきた。
「あの……」

衣通姫が何事かを言う前に、氷河は彼に微苦笑してみせた。

「深草の里から、ここに百夜通えとさ」
「あ……ひ…ひどい人でしょう? 人の心をそんなことで試すなんて」

「…………」

姉を非難する衣通姫を、氷河はじっと見詰め、それから呟くように言った。
「通うさ、百夜」

途端に、衣通姫の瞳に絶望の色が浮かぶ。

その訳を、氷河が衣通姫に問い質そうとした時、
「瞬! どこにいる」
寝殿と西対を繋ぐ渡殿の方から、低い男の声が聞こえてきた。

「あ、はい!」

氷河の衣通姫が弾かれたように、そちらの方を振り向く。

「瞬?」
「ごめんなさい。兄様が帰って来たみたい」

氷河の衣通姫の名は、瞬というらしかった。
瞬が、西中門に続く道を氷河に指し示すと、渡殿の方に駆け出す。

一度だけ、瞬は後ろを振り返った。
その場からまだ立ち去ろうとしていなかった氷河に、悲しげな眼差しを投げ、何かを振り切るようにして、衣通姫は再び氷河に背を向けた。






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