「ねっ、ねっ、氷河。可愛いでしょ! クマのパジャマv」

病院での検査・療養の生活からやっと解放され、城戸邸に戻ってきた日の夜。
氷河が瞬の部屋を訪れると、薄いブラウンのパジャマを身に着けた瞬が、妙に浮かれた様子で、氷河の前でくるりとファッションモデルさながらのターンを披露してくれた。

瞬が『可愛い』と言っているそれは、ごく普通の開襟になった綿のパジャマで、左の胸にどこか呑気な顔をしたクマのアップリケが貼り付いていた。前身ごろにもクマの刺繍付きのポケットが2つあり、サイズがサイズなら完全に子供用としか思えないデザインの代物である。

「…………」
氷河は、一瞬、過酷な闘いの日々が、瞬の頭からネジを1本抜き取ってしまったのではないかと真剣に憂えてしまったのである。

「いったい急にどうしたんだ、おまえ」
「え?」

氷河に尋ねられた瞬が、それは可愛らしく小首をかしげてみせる。
それから、瞬は、にっこりと微笑した。
「どうした……って、見てわからない? おにゅーのパジャマだよ。可愛いでしょ」

それがパジャマだということは、氷河にもわかっていた。
彼が知りたかったのは、なぜ瞬が、そんな子供じみたデザインのパジャマなどに浮かれているのかということだったのだ。
しかも、それは、どうせすぐに不用になるはずのものではないか。

「可愛いだけじゃなく、すごく凝ってるんだよ。アップリケやポケットの刺繍だけじゃなく、ボタンもみんなクマなんだ」

「…………」

無表情を保ったまま、何のコメントもしてくれない氷河に、瞬が少し不安そうな顔になる。
「可愛くない?」

これは、可愛い、可愛くないの問題ではない。
そんな問題ではなかった――氷河にとっては。

「……可愛くないこともないが、おまえのパジャマが可愛くても無意味だろう。見るのは俺しかいないし、俺はすぐ脱がせる」

「あ、それ、だめ」
「なに?」
「僕、このパジャマ、すごく気に入ってるんだ。脱ぎたくなんかないもん」
「脱がずにどーすると言うんだ」
「脱がずに眠るの」
「おまえの言っていることの意味がわからん」

氷河は、真剣に、本当に、真面目に、瞬の言う言葉の意味がわからなかった。
瞬が、悪びれた様子もなく、こっくりと頷く。

「氷河のために説明してあげると、僕は、このパジャマがとっても気に入っていて、夜はこれを着て眠りたいから、だから、しばらく氷河とは××しない」

「…………」

今度の瞬の説明は、非常にわかりやすかった。
氷河は瞬の意図を正確に理解かつ把握し、そして、しばしの間、自失した。

それでなくても、闘いの日々と入院生活が長く続き、氷河はずっと瞬とのそれを――いわば、お預けを食っている状態だったのである。
長い悪夢のような禁欲生活を耐え、その上でやっと訪れた今日の日、だったのだ。
だというのに――。

「瞬……本気で言っているのか?」
「嘘言っても仕方ないでしょ」

「身体が……まだ本調子じゃないのか」
「元気だよ」

確かに、一見したところでは、瞬は元気そうに見えた。
健康的に伸びた手足も、生気を感じさせる瞳の色も、どこと言って以前と変わったところは見当たらない。


「だったら」
「だから、パジャマを脱ぎたくないの」
「そんなにそのパジャマが気に入ったのなら、後で、俺が責任をもって着せてやる」
「そんな子供じゃあるまいし」

「…………」

身体だけでなく、判断力の方も、一応、常識的な健全さを失ってはいないようである。
何が、以前の瞬と今の瞬とで異なるのか、氷河にはわからなかった。
瞬が自分を嫌いになったというのなら、話は別であるが。

ハーデスのせいなのか――とも、氷河は考えたのである。

瞬の身体がハーデスに支配されていた時、瞬がどういう存在として存在したのかを、氷河は知らない。
瞬自身もわかってはいないようだった。

だが、本来、冥界は、生きた肉体をもって存在し得ない世界である。
当然、冥界では肉体を維持するための欲望もまた発生しないだろう。
そんな場に、特殊な状況で長く存たことで、瞬の身体に何らかの変化が生じた――例えば、肉体の営みを嫌悪するような――のかと、氷河は懸念した。


ともあれ、氷河は、その夜は、瞬の我儘――本当にパジャマのせいで、瞬がそんなことを言い出したというのなら、氷河にとって、それは我儘でしかなかった――を聞き入れることにしたのである。






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