帝の大層男らしい態度に感服し、 「猿のわめき声には大騒ぎするくせに、自分の側にいる妖しのものにはまるで鈍感だな。妖しのものより、あの馬鹿にこそお手上げだぞ、俺は……」 ――と、氷河が、言ってはならないぼやきをぼやいた時、だった。 噂の猿でも見物するかと立ち上がった氷河の側に、その少年がぴゅっと飛んで来て、手を差し延べたのは。 「な…何だ?」 その、あまりに脈絡のない行動に、氷河が目を剥く。 少年は、氷河に尋ねられると、慌ててて手を引っこめて、どもりながら俯いた。 「あ……あの、何かご用はないかと」 「……ないぞ」 「はい、そうですね」 ひどい失敗をしてしまった犬か何かのように肩を落として退室しようとする少年を、氷河は鋭く呼びとめた。 「待て」 声をかけられた少年が、ぴたっ☆ とその場に直立する。 「おまえ、名は何という」 「あ……瞬、です。藤原道長様の遠縁で……」 「いつから、ここに」 「まだひと月も経っておりません」 「ひと月足らず……ということは。猿が騒ぎ出した頃だな、内裏にあがったのは。おまえも寝不足か?」 「あ……いえ」 氷河の前でおどおどしている少年は、到底、他人に害を為すような魔には見えなかった。 しかし、氷河には、その少年が真っ当な人間にも思えなかったのである。 目をすがめて、氷河は瞬を凝視した。 瞬は、その視線に射すくめられて微動もできない状態である。 氷河と同席していた吉平兄が、氷河の直衣の袖を引かなかったら、瞬は氷河の目に石にされてしまっていたかもしれなかった。 「氷河、道長様のご縁続きの子だ。いくら美形でも余計な手出しはするなよ。御所様のお気に入りでもあるし。瞬、行っていいぞ」 「はい!」 自分と氷河の間に割り入ってきた吉平の声に緊張の糸を断ち切ってもらったかのように安堵の息をついて、瞬はまるで転がるようにして、渡殿を駆けて行った。 その後ろ姿に微笑しながら、吉平兄が言う。 「あれは、ひどく忠義者でな」 「先月御所にあがってきたばかりで、忠義者かどうかなどわかるまい」 「いや、それがな」 吉平兄の説明によると――。 瞬が御所にあがって間もない頃、帝が、沓脱に瞬を待たせて殿上の間にあがり、それきり瞬のことを忘れてしまったことがあったのだそうだった。 折悪しく、雨が降り出してきたのだが、瞬は帝の言いつけを守って、その場で冬の冷たい雨に打たれたまま、帝の退出を待ち続けていた――というのだ。 「馬鹿か、渡殿ででも雨を避けて待っていればよかったものを」 「帝もそう仰せられたのだ。しかし、あの子は、『ここで待つように言われたので』と、自分の不始末を詫びるように答えて――」 「ふん?」 「まあ、それ以来、帝のお気に入りでな。毒の無さそうな子だし、裏表なくよく働くし、皆にも可愛がられているようだぞ」 「毒のなさそうな、か」 確かに害意はないのだろう、瞬本人には。 それは、氷河にもわかった。 しかし、当人の意思とは関係なく、その存在自体が人に害を為すこともある。 たとえば、美しい女がいたら、男は勝手にその女を手に入れたいという欲を抱くだろう。 その欲が良い結末だけを生むとは限らない。 おそらく、瞬には、その手の――本人の意思とは無関係なところで――“害”があるのだ。 でなければ、氷河の感じた悪寒に説明がつかない。 「とにかく帝や妃が不安を感じて、眠れないでいるんだ。原因を突きとめて、帝を満足させる結果を出せ」 吉平は、物の怪を追い払えとも、悪霊を退散させろとも言いはしなかった。 彼が求めているのは、帝の満足と、それによって安倍の家や陰陽寮への帝の覚えが良くなることだけなのだ。 「ああ、2、3日かけて、勿体つけて退治してやるさ」 呪術師と言うよりは学者である兄に向かって、“陰陽師”である氷河は意味ありげな冷笑を返してやった。 |