瞬が突然高熱を出したのは、氷河が瞬をこの北の果てに連れてきてから4日目の真夜中だった。

天が嫌がらせをしているとしか思えなかったが、その夜は、シベリアに来て初めての吹雪で、氷河の古い隠れ家はぎりぎりと危うげな悲鳴をあげていた。

これまでにも時折帰郷していたので、食料の蓄えや衣類の予備はいくらでもあったが、さすがに医者はここにはいない。
薬剤を売っている店がある村まで10キロほど、医師のいる町までとなると、ここから更にその倍近い距離があった。

だが、躊躇はしていられない。
「待っていろ、医者を呼んでくる」

「お医者様って、何10キロ離れたとこにいるの。外、吹雪いてる。こんな真夜中に、いくら氷河でも危険だよ」

頬を熱で上気させた瞬が、氷河の目には、不思議に可愛らしく頼りなげに映った。

「俺には何でもない距離だ」
「僕、聖闘士なんだよ。平気。すぐ収まる。慣れない場所に来て、ちょっと緊張して熱が出ただけだよ。ここは、風邪のウイルスも活動できないくらい寒いとこなんでしょ」
「いいから、病人は寝てろ!」

暖炉にありったけの薪をくべて、氷河は立ち上がった。
「必ず医者を連れてくるから、心配せずに待っていろ」

氷河を引き止める瞬の声は、開いた扉めがけて吹き込んでくる風の音にかき消されてしまった。

月さえ出ていれば、雪明かりで夜でもほの明るい白い世界は、吹雪のために真闇に満ちている。
吹きつけてくる雪さえ黒い闇の中を、ほとんど勘だけに頼って、氷河は走り始めた。


白い世界が狂気を誘う世界なら、暗黒の世界は不安と絶望を運ぶ世界である。
しかし、今の氷河は、狂気にも絶望にも捕われてはいられなかった。

こうなった責任を感じている余裕すらなかった。

真の狂気、真の絶望は、白い世界にも、この闇の中にも存在しない。
それは、瞬を失った時にこそ訪れるものなのだ。


気候の温暖な日本での生活が長くなっていたせいで、土地勘も鈍り、身体も以前ほど耐寒の術を保持してはいなかったが、今の氷河には立ち止まることも諦めることもできなかった。

『きっと、初めてこの土地にやって来た人は、ひとりじゃなかった。愛するひとが一緒だったから耐えられたんだよ』

狂人の叫びのような吹雪の中で、なぜか瞬の穏やかな声が思い出される。
その言葉の意味が、氷河にはやっとわかった。


『今の氷河みたいに――』

瞬の声は、やわらかい春の陽光を受けて生き返る大地のように優しく力強く、氷河を抱きしめた。






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