その日の放課後、瞬が理科実験準備室を訪れると、そこには紫龍も星矢もいなかった。
つまりは、氷河だけがいた。

瞬が中に入っていくと、氷河が、それまで長椅子に横にしていた身体をゆるゆると起こす。

「こんにちは。星矢たちはまだ来てないんですか?」
氷河からの返事はない。

「変だな。星矢、もう教室にはいなかったから、てっきり、先に行ったんだと思ったのに」
氷河は無言で、瞬をじっと見ていた。

たとえ深遠な意味などない言葉でも、自分が発した言葉に対して何の反応ももらえないというのは、実にきまりの悪いものである。

「あの……おなか減ってるんですか?」
瞬が困ったような顔をして尋ねても、返事はない。

どうしたものかと当惑し、いい方法も浮かばないまま、瞬が氷河との会話の成立を諦めかけた時、
「おまえ、ほんとに、あの一輝の弟なのか?」
唐突に氷河の口から発せられた言葉は、“会話”というものの意義も意味も否定しまくった――要するに、まるで脈絡のない代物だった。

瞬としては、
「はい……」
としか答えようがない。

その返事を聞いて、それでなくても愛想のない氷河の顔が、ますます仏頂面になる。
氷河が何を考えてそんなふうなのかが、瞬にはまるでわからない。
瞬は、コミュニケーション不全な友人の前で、いっそ泣きだしたい気分だった。

「あの……。ア…アンパンのこと、聞いたんですけど、兄のこと、まだ怒ってるんでしょうか」

彼が“一輝の弟”に不機嫌になる理由が、瞬にはそれしか思いつかない。

恐る恐る尋ねてみた瞬に対する氷河の返答は、
「当然だ」

無表情にそう答えられてしまっては、瞬としても、笑いに紛らすこともできず、為す術なしのお手上げ状態である。
「そうですか……」

瞬は、溜め息を一つついて、肩を落とした。
「……兄さんたら……。僕には、いつも、人には思い遣りを忘れずにって言ってるのに。我慢できないほどおなかが減ってたのなら、争ったりしないで、半分こでもすればよかったのに……」

「半分こ?」
氷河が、瞬にしてみれば思いがけない単語に反応する。
少しばかり戸惑いつつ、瞬は、氷河に頷いてみせた。

「それが、いちばんいい解決方法でしょう?」
「面白い発想だな」
「…………」

どこが面白いのか、瞬には理解できない。

「でも、普通はそうするでしょう?」
「そうか?」

「…………」

多分、氷河と自分とでは、使っている日本語が違っているのだ――。
まるで噛み合わない氷河との“会話”を、瞬は、そう考えて無理に納得することしかできなかった。






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