我慢を知らない氷河は、それでも、その後しばらくの間、彼なりに悩んでみたものらしい。
彼が騒ぎを起こしたのは、マドレーヌ事件から半月が過ぎたある日のことだった。


その日、瞬は氷河と二人で、例の溜まり場にいた。
氷河と二人きりでいるのも、以前ほどには恐ろしくなく、彼が何やらじっと自分を見詰めているのにも、瞬は居心地の悪さは感じていなかった。

話すことがないのなら、それでいいのである。
氷河と二人でいる時には。

「俺は――」
瞬を凝視したままで、氷河がふいに口を開く。

「え?」
瞬が顔をあげると、氷河は、いつもと変わらぬ無表情で、いつもと同じように脈絡のないことを――ないように思えることを――口にしだした。

「俺は、おまえがいなくても生きていけると思う」
「はい?」
「俺が俺の命を永らえるのに、おまえは必要ないもののはずだ」
「…………」
「だが、気になる。俺は、おまえを……抱きしめてみたい」

脈絡がない上に、唐突の極みである。
瞬は、氷河の言葉に目を丸くした。
「…………は?」

「これが、噂に聞く恋というものか」

瞬がぱちくりと瞬きをする間に、氷河は一人で勝手に話を進めていく。

「他に理由が思いつかない」
「?」

「そんなもの、腹の足しにもならないのに、無意味だ。まして、おまえは、そんな顔をしてるくせに男のはずで──そんなものを残したいわけでもないが、遺伝子を残すのにも役立たない奴だ。俺のこの気持ちは不合理だ。なのに俺は──」
「?」

「俺はおまえと寝たいとさえ思う」
「?」

事ここに至って、瞬も疑問符ばかりを飛ばしてはいられない。
とりあえず、瞬は、頬と耳朶を真っ赤に染めてみた。

「全く無意味だ。愛だの恋だのが何の役に立つ。邪魔なものだ、そんなものは。無意味で不必要だ。なのになぜ――」


氷河は、自分では、その謎の答えを見つけられないらしい。
氷河が言葉を途切れさせている間に、瞬は何とか彼の言葉の意味に追いつくことができた。



「……愛や恋は不必要なものなんですか?」

氷河にとっての謎は、瞬にとっては謎でも何でもなかった――氷河のその感情の対象が自分だということを抜きにすれば。

未経験の恋はともかく愛情は、瞬にとっては、食べ物よりも高次のもので、“生きていくのに必要な”ものだった。
愛するにしても、愛されるにしても、ともかく、それは必要なものだったのだ。

「食い物ほどには必要じゃあるまい。恋なんてものは、衣食住に不足がなくて、余裕のある奴等が、暇潰しにするものだ」
「そんな……」

「人はまず寝て、食う。それからセックス。生物学的・生理学的欲求が満ち足りて初めて、我が身の保全や財産の確保、愛だの自己実現欲だの、そんな形而上学的なことは生物学的存続に何の不安もなくなった奴が、最後の最後で求める──いわば道楽だ」

「セッ……あ…あの、そういうことって、好きだから……するんじゃないの?」

「? おまえがやらせてくれるんなら、俺としては、性欲と愛情面での欲が一度に満たされて、非常に助かるが」

それは、翻って言うならば、性欲の充足は好意を抱いていない他の誰かでも事足りるということである。

経験のないことだけに、瞬は、氷河のその主張に純粋に怒りを覚えた。
生まれて初めて自分を好きだと告白してくれた相手に――同性ではあるが――、そんなことを言われて、喜ぶ人間がどこにいるだろう。

瞬は、ソファに腰をおろしている氷河の前につかつかと歩み寄ると、音をたてて、その頬をぶった。

「氷河なんか嫌いだっ !! 」

氷河が、思いがけない展開にあっけにとられる。
全く痛くないはずの頬が、妙にじりじりと熱くなった。

「よ…世の中には、食べるものも食べずに絵を描いた人も、ぼろぼろの服を着て哲学した人も、自分の命や生活を犠牲にして人のために尽くした人だっているよ! な……何が生物学的欲求なのっ! そんなものっ!」

「おまえは――本当に飢えたことがないんだ」
「僕がこんなこと言うのは、僕が苦労知らずの子供だからだって言いたいのっっ !! 」
「瞬」

以前、星矢は、瞬を評して、『滅多に怒ったり、声を荒げたりすることはない』と言っていた。
その滅多にない事態を、どうやら自分は引き起こしてしまったらしい――ということに気付いて、氷河はひどく慌てた。
どうして、いったい何が、そんなにも瞬の逆鱗に触れてしまったのかが、氷河にはまるでわからなかったのだ。

「嫌い! 大っ嫌いっ!」

まるで、とどめを刺すように言い捨てて、瞬は準備室を出ていってしまった。

一人その場に残された氷河は、我が事ながら理由のわからない後悔と、自分では得心できない当惑のせいで、瞬を追いかけることすら思いつかずにいた。



「おまえじゃないとやりたくないってのは、理屈に合ってないじゃないか。なのに、俺は……」

氷河の懊悩の原因は、要するに、そういうことだったのである。






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