瞬たちの通う学校から歩いて10分ほどのところに、その屋敷はあった。 一人暮らしというからには、家族の許を離れてアパートかマンションを借りているのだろうと勝手に思い込んでいた瞬は、自分と兄が暮らしている家の20倍の敷地はありそうな豪邸の門の表札に氷河の名を見い出して、目をみはってしまったのである。 こんな広い屋敷に住んでいる者が、“本当の飢え”など知っているはずがない。 氷河の言葉の意味が、瞬にはますます理解し難いものになっていた。 「気をつけろよ、瞬。ここんち、庭の手入れとか全然してないから、玄関まで辿り着くのに雑草を漕いでいかなきゃならないんだ」 確かに広いだけは広いが、見捨てられた廃屋の雰囲気がないでもない。 庭は、自然のままの林と大差なかった。 「こんなとこに……氷河が一人で住んでるの?」 瞬の先に立って、氷河が作っているはずの獣道を探していた紫龍は、その作業を続行しながら、氷河の身の上話なるものを始めてくれた。 「まあ、あるところにはありふれた話なんだが……。氷河の母親は、某大企業のお偉いさんの囲われ者でな。ロシアでの現地妻のようなものだったらしい。ロシアへの企業進出が軌道に乗らなくて、計画が頓挫すると、奴の父親は、氷河と氷河の母親をロシアに残して、日本に帰国したわけだ」 「そんな……」 「幾許かの金は貰ったんだろうが、当時のロシアは政情も経済も不安定だったからな。そんなものはあっという間に消えてしまったらしい。普通の健康な男でも職にあぶれているところで、乳飲み子を抱えた母親が仕事に就けるはずもなかったろうから、随分貧しい暮らしをしていたんだろう。他に身寄りもなかったらしいし、奴が5つだか6つだかの時に母親が病死した時も、5日近く誰にも気付いてもらえなくて、発見された時には、氷河自身も餓死寸前だったそうだ」 「…………」 それは、確かに、瞬には想像も出来ない境遇だった。 瞬は早くに両親を亡くしたが、世話をしてくれる親戚も、親身になってくれる隣人も、友人も兄もいた。 贅沢な思いをしたことはなかったが、命に関わるような飢餓の経験もなければ、誰かに見捨てられた経験もなかったし、何より、人に愛されていないと感じた経験を、瞬は、これまで、ただの一瞬も持ったことがなかったのだ。 「でさ、父親が生きてることがわかって、日本にやってきた氷河に、そのクソ親父がくれたのが、この屋敷ってわけ。この屋敷だけな。まあ、あちらさんには、あちらさんの家庭があったんだろうけど、氷河は、そんなもんが欲しくて、こんな国にまでやって来たわけじゃなかったんだろーにさぁ」 「使ってるのはほんの一画だけで、ろくに掃除もしてないし、使用人も雇ってないから、中もひどいもんだがな」 やっと辿り着いた玄関のドアには、鍵もかかっていなかった。 泥棒も入らない家――ということなのだろう。 まだ日暮れまでには時間があるというのに、屋敷の中は薄暗かった。 「生きるために必要なことだけ……というのは、いろんな意味で裏返しなんだと思う。ロシアにいた頃には、それを手に入れるのに精一杯だったんだろうし、それ以外の何かを求めてやってきたこの国では、それしか手に入れられなかったわけだからな。期待をすると、失望もする。氷河は、父親のせいで受けた、ただ一度の失望が大きすぎて――懲りたんだろう、おそらく」 比較的埃の積もっていない廊下を2度ほど曲がったところにある部屋のドアの隙間から、灯りが漏れていた。 「……僕、氷河に、ひどいこと言っちゃったかもしれない……」 激しい後悔に苛まれて、瞬がその部屋に入るのを躊躇する。 「ひどいことを言ってやったのか? それは、いいことをしたな」 穏やかに笑って、紫龍は瞬の背を押した。 |