「呼んだ?」

宙に向かって呟いた名前の主からの、予想もしていなかった返事に、氷河は心臓を鷲掴みにされた。

「…………」

最初、氷河は、それを、他の地に遅れてやっとこの高原に訪れた暖かい季節が見せた幻だと思ったのである。
幻でなければ、失ったものを求める狂気が、自分を侵食し始めたのだと思った。

「なぜ、おまえがここにいる」

幻でもよかったし、狂気の産物でもよかった。
むしろ、その方がよかった。

その春の幻影が、幻とは思えない明確な発音で、氷河の嫌いな男に言及する。
「兄さんは、僕の兄さんだから、僕が幸せになるためだったら、何だってしてくれるんだ」

途端に、氷河は、幻ではなく、実在する瞬と対峙している自分自身に気付いたのである。
気付いた途端に、怒りがこみあげてきた。

瞬の幸福を望んでいるはずの一輝が、この場所を瞬に知らせた意図が、氷河にはわからなかった。
ただ、瞬のために何かをすることのできる瞬の兄に、氷河は、怒りと――絶望的なほどの羨望を抱いた。


「……羨ましい話だな。俺は、もう、おまえに何もしてやれないというのに」
怒りとプライドが紡ぎ出したその言葉は、しかし、ただの覇気ない弱音にすぎなかった。

「氷河は、側にいてくれるだけで、僕を幸せにしてくれるよ」
「俺はおまえを抱きしめてもやれない」
「片手でも十分。それで足りなかったら、僕が氷河を抱きしめてあげる」


失った腕に、また痛みが走った。
今はもう存在しないその腕が、悲鳴のような鋭痛で、瞬を抱きしめたいと氷河に訴えてくる。
氷河は、その腕をなだめるように、左右に首を振った。


「……駄目。僕を泣かせたくなかったら、ほんとは僕を待ってたんだって言って」

残雪が、春の陽光のせいで溶けていく。
近付いてくる春に、触れたいという思いと逃れたいという思い。
その二つに、氷河は動きを封じられていた。


「他に、僕が何を求めると思ったの。僕が欲しいのは、いつだって」

氷河に愛されることでも、氷河に守られることでもなく、


「氷河そのものだったんだから」






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