「あの……?」 彼は、僕の挨拶に一言の返事も返してくれない。 僕は微かに首をかしげた。 「あー、こいつさ。その……記憶をなくしてるんだ。ひどい怪我してさ──その傷を受けた時に、ちょっと脳の方に損傷を受けたわけ」 「記憶を……?」 「うん、でさ、ちょっと失語症の気もあんだよ。なにしろ、ひどい怪我で、半年以上病院暮らししてて、やっと起きあがれるようになったばかりなんだ。一度は絶望視されてたとこを奇跡的に回復したんだけど、でも、まだちょっと本調子じゃないから……」 「お気の毒に……」 体力もありそうだけど、それ以上に彼の眼差しは意思的だった。 こんな怪我を負うことになった経緯は知らないけど、おそらく、星矢の言う絶望的な状況を彼が乗り切れたのは、彼の身体の内に常人とは桁の違う力が宿っていたからに違いない。 そんな強い力を持った人が、命の代わりに記憶を失ってしまったなんて、鮮やかに残ってしまった傷痕よりも痛ましい話だ。 記憶喪失というのは、ひどい時には、言葉も文字も生活習慣すら忘れることがあるらしい。 自分の内に確かに信じられるものがないなんて、どんなに不安なことだろう。 「……怪我をした時に、左前頭葉から側頭葉にかけて脳に損傷を受けたんだ。ちょうど記憶中枢と運動言語中枢のあたりだな。感覚言語機能はちゃんとしてるから、俺たちの喋ってることはちゃんと理解できている。ぶっきらぼうなのに目をつぶれば、生活するのに大した支障は生じないだろうから――」 紫龍の補足説明に、僕は顔を歪めていたに違いない。 この人が――ううん、他の誰だって――血に染まっている姿なんか、僕は思い浮かべたくなかった。 「……あ、氷河、話してたろ。瞬だよ。世話好きだから、おまえの面倒も見てくれるさ」 彼――氷河――は、そう紹介されて、じろりと睨みつけた。 僕を、ではなく、星矢を。 「あの、そのお怪我はどうして? ほんとに何も憶えてらっしゃらないんですか?」 僕が尋ねると、今度は僕を。 「お……おっしゃりたくないなら、いいです……」 彼の視線の強さに、僕は思わず肩をすくめてしまった。 |