無表情の氷河を見ていることが、瞬は悲しくてならなかった。
真実の死が近付いているのかもしれないというのに、絶望の思いを抱くことすらできないという彼の状況が、瞬には、たとえようもなく不幸なことに思われた。


春の暖かさを含み始めた微風が吹くある夜、氷河はなぜ、そんなことを望んだりしたのだろう――という、今更ながらなことを、瞬は考えた。

ただ一人の人の前に、唯一の存在として在ることは、それほどに心地良いことなのだろうか。
この1年の間に、兄や仲間たちが氷河のために力を尽くす様を見るたびに、瞬の疑念は大きく育ってきていた。

「氷河……。僕は氷河が好きだよ。みんなもそうだよ。それがわからなかったの。それだけじゃいけなかったの……」

人間の魂が魂でなくなり、ただの綺麗な石になった時、氷河自身はどういうものになってしまうのだろう。
彼は、無になり消えてしまうのだろうか。

そして、氷河の仲間たちのこの1年間の努力も徒労に終わることになるのだろうか。
この孤独な仲間のためにどれほど頑張っても、結局、自分たちは彼を救うことはできないままなのかと思うと、瞬は涙が止まらなかった。

「……きっと、それだけじゃいけなかったんだね。氷河を好きだっていう気持ちだけがあったって、何にもならないんだ……。結局、僕たちは、氷河の魂を見付けられずにいるんだから……」
仲間を大切に思う気持ち以外に何の力もない自分が、その無力が、瞬は悔しくてならなかった。


氷河が必死に横に首を振ろうとしているように見える。
魂のない氷河が、そんなことをするはずもなく、そう見えてしまう自分こそが、仲間たちの努力を否定したくない思いでいっぱいなのだと思うと、瞬はやりきれない気持ちになった。

「……魂がないって、どういう気持ちなの? 辛くないの? 悲しくもないの? 水晶の殻に守られてる氷河の魂は傷付くこともなくて……今の氷河は幸せなの?」

答えが返ってこないことを承知で、瞬は氷河に尋ねた。
瞬の目に、氷河は幸せそうには見えなかった。

人は生きていれば、傷付くこともあるだろう。
悔しいことも、悲しいことも、辛いこともある。
今の瞬が、まさにそうだった。

だが、今の瞬には、その悲しさや辛さを感じることができないことよりも不幸なことなど、この世には存在しないように思われたのである。
それらを感じることができないということは、とりもなおさず、喜ぶことも楽しむこともできないということなのだから。


無表情で無感動な瞳の氷河。
彼が幸せでいるはずがなかった。



――春の夜。

森に巣を作った母鳥たちは、今夜も安全な巣の中で、小さな卵を温めていることだろう。

薄く脆弱とはいえ、完全に外界から隔てられた殻の中にある小さな命。
母鳥に大切に守られている卵の中の命は、その中にとどまっている限り、悲しむことも辛い思いをすることもなく、傷付くということも知らない。

卵の中の命は、世界に生まれ出ることを望んでいるのだろうか。
決して幸福だけが待っているわけではないこの世界に?

世界中のたくさんの卵の中の命の内には、その殻を破って、外の世界に生まれ出ることを望んでいない命もあるのかもしれない。

“生まれる”ということには、もしかしたら、大した意味はないのかもしれなかった。
それは、否応なく与えられる環境に過ぎないのだ。

だが、瞬は、“生きる”ことには意味があるのだと思いたかった。
命は、生まれてしまうものなのだから。
生まれてしまった命は、そう思わずには、生きていくことができないではないか。


そうして、生まれてしまった命を支配する魂は、どんなふうにして、強く美しくなっていくものなのだろう――?

瞬はこれまで、そんなことを考えたことは1度もなかった。
だが、答えはすぐに見付かった。

それは、もちろん、“生きること”で、強くなり、美しくなっていくのだ。
他には考えられなかった。

言葉も表情も感情も失い、『ありがとう』の一言も与えてくれない仲間の魂を救い出すために、この1年間を必死に“生きて”くれた星矢たちが、その魂と心が、瞬には以前よりもずっと強く美しいものに思えていた。

あの女性は、氷河の魂を、最も強く美しくできる場所に置くと言っていた。
氷河の魂は、どこかで、“生きて”いるはずだった。
生きていなければ、それは美しくも強くもなれない。

(僕の魂は、僕の中にあって、そして生きてる。氷河の魂も生きてて、でも、氷河の中にはない。じゃあ、氷河の魂はいったいどこで――)


瞬は、その答えがわかったような気がしたのである。
仲間たちは強く美しくなった。

瞬は、そうだと確信した。
そして、その翌日から、瞬は、あの白い女神と対決するための準備を始めたのだった。






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