氷河がシベリアに行く理由がそんなくだらないことなのだとしたら、自分が氷河を引きとめることには正当性がある――。
そう信じて、瞬は、満天の星の下で、口を開いた。

「ねえ、聞いた話なんだけどね……。昔、どこかに、泣き虫で弱虫の男の子がいたんだって」
それを氷河に告げることは、瞬自身にとっても辛いことだったのだが、その痛みに耐えた果てに手に入れられるものの方が、少しばかりの苦痛よりも、今の瞬にとっては大事だった。

「いつも兄さんに庇われて、守ってもらってばかりいたんだ。その男の子はね、強くて優しい兄さんが大好きだった。いつも兄さんに感謝してた。そして、その子には夢があった」

「瞬……夢?」
瞬が何を言おうとしているのかを察した氷河が、僅かに表情を曇らせる。
瞬は、“聞いた話”として、自分の身に起こったことを語ろうとしているのだ。

「何てことない夢だよ。その子の夢は、兄さんに『ありがとう』って言うことだった。改まってそんなこと言うのは照れくさいし、言わなくても、兄さんはわかってくれてると思ってたから、ずっと言わずにいたんだけどね。でも、いつかちゃんと言おうと思ってた」

「瞬――」
氷河が懸念した通りに、瞬の瞳が潤み始める。
氷河は、それ以上瞬に語らせるべきではないのではないかと思った――思うだけは思った。

「なのに、ある日、テレビや新聞のニュースでしか聞いたことのない国の大使館から連絡が来て、『あなたのお兄さんは我が国の内戦に巻き込まれて亡くなりました』だって」
瞬は、しかし、彼の言葉を紡ぎ続ける。

「ばかみたいな話だよね。どっかの子供が地雷を踏みかけたのを、助けようとしたんだって」

その子供は、まだ5、6歳の、内戦で両親を失った幼い少年だった。
その国の首都からの難民で、国境近くにあった道路の地雷を踏んだ──踏みかけたのではなく、実際に踏んだらしい──その少年を、一輝は尋常の人間のものとは思えないスピードで爆発から逃れさせた――というのが、現場に居合わせた者たちの話だった。
ほぼ1年前――昨年の夏――のことである。

「僕は信じなかった。だって、僕、兄さんにはこれまで何度も死んだって思い込まされてきてたから。僕はまだ兄さんに『ありがとう』って言ってなかったから」
その連絡を受けた時、実際、瞬は泣かなかった。

国連に属している日本の平和大使の厚意で、瞬の兄が庇った少年からの礼と、その少年の兄からの『弟を守ってくれてありがとう』という、たどたどしい日本語でのボイス・メッセージが瞬の許に届けられた時、瞬は初めて泣いた。

いつまで経っても――幾つの夜と昼を過ごしても泣きやまない瞬を慰めるのに、氷河がどれだけ苦労したか――。
氷河は、そのために、去年はシベリアに帰郷することができなかった。

「僕は、もう二度と兄さんに『ありがとう』って言うことはできなくなって――」

「瞬、もうやめろ」
あの時と同じ瞬の涙は、もう二度と見たくない。
氷河は、瞬の言葉を遮った。

その氷河の腕を、逆に瞬が強い力で掴みあげる。
「氷河、いいこと教えてあげようか?」
「瞬、もうその話は――」

瞬は、氷河の制止を無視して、自虐的に言い放った。
「僕たちは、明日死ぬかもしれないんだよ!」

きっぱりと言い切ってから、瞬が唇を噛みしめる。
去年の夏と同じように、瞬の瞳には涙があふれていた。

「来年、夏がまた来るとは限らない。来年の夏もふたりで過ごせるとは限らない」
「瞬……」

「夏はいつか終わる。だから、僕は、言えるうちにいっぱい『ありがとう』って言っておく。できる限り長い時間、氷河と一緒にいたい。夏が終わってからね、もっと一緒にいればよかったなんて後悔するのは、僕はもう嫌なんだよ!」

去年の夏――瞬と瞬の兄の最後の夏――。
氷河が、瞳を濡らしている瞬のためにしてやれることは、あの時と同じように、孤独に耐える瞬の肩を抱きしめてやることだけだった。







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