「俺は――」

泣きじゃくる瞬と、その瞬を憎悪の眼差しで見詰めている氷河の間に割り込んできたのは、当然のことながら、その場に居合わせた3人目の男だった。

「俺は、男同士の痴話喧嘩に首を突っ込みたくはないし、瞬が氷河なんぞと付き合うのには、どうあっても大反対だが」
彼は、それをあまり好ましい事態だとは思っていないような口調で、
「瞬、おまえはこの馬鹿が好きなんだと思うぞ」
と言った。

「え……?」
「少し、冷静になって考えてみろ。おまえは、氷河から金を引き出したわけでも何でもないんだろう? だったら、おまえは氷河に何の損害も与えてないわけで、罪滅ぼしも何も必要ないじゃないか」
「でも、僕は、氷河を好きでも何でもないのに、嘘をついて――」


『氷河を好きでも何でもないのに、嘘をついて――』

瞬はどうしてそんな残酷な言葉を幾度も繰り返すのか――。
氷河は、瞬の言葉に触れるたびに襲われる胸の痛みに耐えるので精一杯だった。
氷河自身は幸福に酔っていたあの夜にもあの昼にも、瞬はそれを罪滅ぼしなのだと自身に言い聞かせ、拷問に耐える思いで好きでもない相手に身を任せていたというのだろうか。
だから、自ら罰を乞い、もっと責めてくれと氷河にそれを求めていたのだろうか――?

そう思わざるをえないことこそが、氷河にとっては拷問だった。

「だから、冷静になれと言うのに。本当に、氷河を好きじゃないのなら、こいつが泣こうが傷付こうが、おまえにはどうでもいいことじゃないか」
「それは、でも、に……人間として――」

「人間でもゴキブリでも、自分にとってどうでもいい相手なら、傷付いても死んでもどうだっていいと考えるのが普通の人間だろう。……ま、おまえはちょっと普通じゃないが」
紫龍はそう告げてから、僅かに両肩をすくめてみせた。

「幸不幸の境目が曖昧なように、好きと嫌いの境目もあやふやなもんだぞ。それが恋かどうかなんてことになったら、ますますわからないもんだ。どうしようもなく嫌いなのでない限り、好きなんだと思っていた方が気が楽だろうが。おまえは、氷河を傷付けたくないと思う程度には、この馬鹿を好きなんだよ」

「そんな……」
瞬には、紫龍の言葉を素直に受け入れることができなかった。
人を好きだという感情が、そんなにもいい加減に、そんなにも曖昧に、人の許を訪れるものだとは、瞬には信じられなかったのである。
人を好きだと感じる心は、時に人の一生を左右することもある重大な感情ではないか。

「瞬、おまえ、何か勘違いをしてないか」
瞬の不審を見てとった紫龍はそろそろ、この教科書通りの思考と価値観しか持っていない後輩に疲労感を覚え始めていた。

「勘違い?」
「勘違い、だ。こう、惚れた相手に出会ったら、その時には、天からの啓示があって、その相手が神々しく輝いて見えたり、バックに花が飛んで見えたりするもんだとか何とか」
「そ……そこまでは……思ってないけど、でも、好きな人に会ったら、人は何か感じるものでしょう? 僕は、氷河といると、氷河に優しくされると、切なくて、悲しくて、辛いだけだった……」

呻くようにそう言って唇を噛んだ瞬に、紫龍が皮肉に言い募る。
「――で、氷河の家を出る時は、もう氷河を騙さずに済むっていうんで、気分も晴れ晴れとして、楽しかったのか?」

紫龍の意地の悪い言葉を聞かされた瞬の瞳には、また新しい涙が盛りあがってきた。
「そんなはずないじゃない……! でも、他にどうしようもなくて……。だって、僕が悪いんだもの。僕が、氷河に、好きだなんて嘘ついて、騙して、氷河と離れるのがどんなに辛くたって、それは僕の自業自得で、だから、僕は我慢して――」

瞬の涙ながらの訴えの意味が、その時にはもう、氷河にもわかってしまっていた。
瞬は、自分が誰を好きでいるのかを知らないでいるだけなのだということが。


「氷河。おまえが相手にしてるのは、こういう子なんだからな」
紫龍が、疲れきった顔をして、氷河にぼやく。

その先は、言われなくてもわかっていた。
瞬は、人を騙すことなど到底できない人間で、瞬が騙していた相手は、氷河ではなく、瞬自身だったのだ。







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