最初、それは、シュンの何気ない一言だった。
「今度のオリンピア祭の出場権を、ニキアスに譲ってあげる気はない?」
──という。

アテネの郊外に構えたヒョウガの屋敷の中庭には、エーゲ海から吹く暖かい風と、初夏の昼下がりの眩しい光が満ちていた。
市街から離れた場所にあるこの屋敷の中庭には、人々の作り出す喧騒も入ってこない。
召使いたちは、主人の機嫌を損ねないように気を遣って、屋敷の奥に潜んでいるらしい。

女神アテナの恵みであるオリーブの木が、ヒョウガとシュンに、白い花と心地良い木陰とを提供していた。
御影石のベンチに腰をおろし、緑と白い花で埋まった庭の風情を楽しんでいるようだった  シュンは、ふいに傍らに立つヒョウガを見あげ、本当に大したことではないような顔をして、そう言ったのである。


紀元前424年。
7年前から、デロス同盟の盟主であるアテネは、ペロポネソス同盟の盟主であるスパルタとの、長い戦争に突入していた。
いわゆる、ギリシャの全ポリスを敵味方に分けたペロポネソス戦争である。

戦闘自体は、それぞれの同盟都市周辺、もしくは殖民都市周辺で行なわれることが多く、本国に戦火が及ぶことはほとんどなかった。
戦時中とはいえ、アテネ市内は平和そのもの。
しかし、アテネは毎年のように戦場に向けて艦隊を送り出していた。


ヒョウガがこの壮麗な屋敷を手に入れたのは、5年前。
当時、アテネ10部族の中からそれぞれ一人ずつ選ばれる将軍職の代理として、スパルタ領のスファクテリア島の戦地に向かったヒョウガは、その戦いで完璧ともいえるような勝利を故国にもたらし、スファクテリア島をアテネ領にしてのけた。

それまでのヒョウガは、正式なアテネ市民ではあったが、強力な市民の係累もない、どちらかと言えば貧しい市民の一人に過ぎなかった。
スファクテリア島に将軍代理として派遣されたのも、ヒョウガの属する部族の将軍が高齢で、戦場までの長旅に耐えられそうになかったことと、その遠征で利権の絡む重大な戦闘は起こらないだろうという推測から、有力市民のコネはなくても戦略に長けた頑健な者を送っておけば済むだろうという動きがあったからにすぎなかった。

ヒョウガは幸運だった。
そして、その幸運を我が物とする力量を持っていた。
膠着状態に陥っていたスファクテリア島で戦闘は起こり、ヒョウガはスパルタ軍本隊との戦闘に勝利したのだ。


アテネは民主制を採用しているポリスである。
故に、凱旋将軍になったヒョウガが、それで特別の地位を得ることはなかったが、代わりに彼は多大な富を手に入れた。
この屋敷も、ポリスに名誉と領土をもたらした戦勝の報奨として与えられたものだった。

ヒョウガは、翌年には五百人評議会の議員に選ばれ、名実共に有力市民の仲間入りをする。

だが、ヒョウガをアテネで最も有名な市民の一人にしたのは、スファクテリア島での戦勝直後に開催されたイストミア祭におけるペンタスロン──短距離競走・幅跳び・円盤投げ・やり投げ・レスリングの五種目を一人の選手がこなす五種競技──での優勝だった。
翌年にはデルフォイで開催されたピュティア祭で、昨年はネメア祭で、他を寄せつけない圧倒的な強さを見せ、同種目で優勝している。

若くして──否、若かったからこそ──ヒョウガは、アテネ市民としては最高の富と名誉を手に入れた。
そして、シュンは、そんなヒョウガにとって、別格の“財産”だった。






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