「オリンピア祭の出場権を譲るように俺に頼んでほしいと、奴がおまえに言ってきたのか。金が必要なのなら、直接俺に言えばいいんだ。怠惰が理由で貧困に苦しんでいるのでさえなければ、俺が恵んでやる」
「頼まれたわけじゃないよ。僕が思いついただけ。お金を恵むなんていうのは……失礼でしょ。ニキアスはヒョウガと同じ市民なのに。プライド傷つけちゃうよ」
「同じ市民でも、担保も持たない貧乏人相手では、貸借契約を結ぶこともできない。金を恵まれることは奴のプライドを傷つけるが、オリンピア祭の出場権を譲られることは、奴のプライドを傷つけないというのか」

5年前までは、ヒョウガもそう・・だったのである。
市民という身分はあっても、貧しかった。
養わなければならない家族はいなかったが、孤独だった。
富と名誉、そして孤独を癒してくれるものを、しかし、ヒョウガは自分の力だけで手に入れた。
他人にすがったことは一度もない。

だからこそ、ヒョウガは、やたらとニキアスに肩入れをするシュンが不快だった。
その不快の感情に、不安と嫉妬が絡んでいることは自覚している。
だが、ヒョウガにはわからなかったのだ。
自分に何の益をもたらしてくれるわけでもない相手に、シュンがそこまで親切にしてやる必要や義務があるだろうか──と。
二人の仲を勘繰りたくなるのも致し方ないことだった。

シュンは、だが、自分の親切を不自然なものとは思ってもいないらしい。
彼は、ヒョウガに食い下がった。
「傷つけずに譲る方法はいくらでもあるでしょう。怪我しちゃったとか、嘘をつけばいいんだよ」
「オリンポス祭での競技には、俺の名誉がかかっている。アテネの市民たちの期待もある。そう簡単に他人に譲れるものじゃない」
「名誉なんて……。そんなものにどんな価値があるの。名誉でおなかは膨れないよ」
「何?」

それが、他の男のための言葉でさえなければ、ヒョウガもそこまでは激昂しなかったかもしれない。
しかし、ヒョウガの名誉を軽んじるシュンのその言葉は、他の男のために言われた。
それが、ヒョウガの神経を逆撫でする。

「名誉を重んじるからこそ、国益を無視して戦を中断し、各ポリスの代表者たちはオリンピア祭に参加する。名誉を重んじる者がいなくなったら、聖なる休戦も成り立たない。シュン、俺が戦に出ずにいるのは、おまえが戦を嫌っているからだぞ。望めば手に入れられる栄光を、俺はおまえのために我慢しているんだ。この上、オリンピア祭に出るなだと !? 」

ヒョウガの思いがけない激昂に驚いて、シュンは息を飲んだ。
それも当然のことである。
ヒョウガがシュンに対して声を荒げるなどということは滅多にないことだったし、シュンは、自分の願いは叶えられるものと思っていたのだ。
シュンの大抵の望みを、これまでヒョウガは、いつも快く叶えてくれていた。
そして、ヒョウガの言うことには、確かに一理があったので、シュンはすぐには彼に反駁できなかった。

──オリンピア祭には、ギリシャ全土から競技者や観客が参加する。
ペロポネソス戦争のさなか、今は、各ポリスがギリシャ各地で戦を繰り広げていた。
が、宗教的に大きな意味のあるオリンピアの祭典には、人々は戦争を中断してでも参加しなければならず、それは『聖なる休戦』と呼ばれていた。

アテネから、オリンピアの地まで約360km。
敵対するスパルタからは、130km。
参加者たちは武器を捨て、時には敵地を横切りながらオリンピアを目指して旅をする。
『聖なる休戦』の期間は、場合によっては、3ヶ月以上の長きに及ぶこともあった。

もっとも、『聖なる休戦』の期間が過ぎれば、戦はすぐに再開される。
オリンピア祭の間に、戦を終わらせるための話し合いが為されることはあったが、それが実を結ぶことは稀だった。






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