瞬の“そんな気分”を取り戻すために、氷河はテーブルの上に、図書館の出入館記録を広げ直した。
「悠長に構えてもいられないから、少々大雑把にいく。あの時間、図書館にいた生徒は25名。閉館間際だったから、ほとんどが帰った後だった。他に図書館の職員が3名と教員が1人いたが、まず無視していいだろう。教員には盗む必要もないデータだし、見られても問題はない。図書館の職員たちの中には、生徒たちと個人的な関係のある者はいない」

氷河の状況説明に、瞬は小さく頷いた。

「これが俺のCD−ROMというのなら、馬鹿な生徒の逆恨みということもあるだろうが、モノはおまえの持ち物だから、怨恨の線は消える。おまえは生徒に甘いからな。生徒たちに恨まれるタイプじゃない。とすると、犯人は純粋にデータが欲しかったんだと思う。それが成績・評価関係のデータの入ったものなら儲けものという程度の軽い気持ちで持っていったんだろう。  とすれば、怪しいのは3年生だ」

どうあっても自分の教え子を疑わなければならない現実を突きつけられて、瞬は再び瞳を曇らせた。
氷河は、委細構わず先を続ける。
「あの時間、まだ図書館内にいた生徒25名中、3年生は9名。内、1人は、ずっとオーディオコーナーで、くだらない歌謡曲を聞いていたらしいから除外。Aクラスの古谷、Bクラスの掘、Cクラスの鈴置、Dクラスの堀川あたりだな、怪しいのは。あ、それから、Aクラスの橋本もか」

「どうして古谷君たちが怪しいって思うの」
氷河の容疑者リストから数人が消えたことを単純に喜ぶこともできず、瞬は、テーブルの上に置かれていたリストを手にとって、氷河に尋ねた。

「4月の模試と中間考査で成績が下がってる奴等だ。通信簿の評定を気にしているはずだからな。こいつらは、期末考査で挽回しないと──」
「古谷君は、スポーツ推薦枠を狙ってるから、あんまり成績のことは気にしてないと思うよ。  堀君は、中間考査1日目に、電車の事故で遅刻しちゃっただけ。受けられなかった教科の担当は対応検討中。Dクラスの堀川君は──あの……多分、好きな人ができて、勉強どころじゃないだけだと思う……」

犯人追跡のために瞬から提供された新しい材料は、氷河の顔を微妙にしかめさせた。
「……ガキのくせに生意気な」
「僕と氷河がそーゆーことになったのは、もっと早かったでしょ」

生徒の恋愛を非難する権利は、教師にはない。
特に自分たちにはないのだということを、氷河に思い出させてから、少々苦しげに瞬は微笑した。

「あと、橋本君は、成績下がってなんかいないよ。国語表現や国語総合ではいつも満点に近い点数ばかりとってるし、総合成績も、中間考査では学年5位内に入ってて──色々、お家の方は大変そうなのに、頑張ってる生徒だよ」

それまで渋い顔をしていた氷河が、瞬のその言葉を聞いて、不審そうに眉根を寄せる。
氷河の表情の変化を訝った瞬に、氷河は肩をすくめつつ、感心したように告げた。
「しかし、よく覚えてるな、そんな生徒個々人の都合をいちいち。データベース化する必要もないじゃないか」
「そりゃあ、大事な教え子のことだもの。不用意な一言で傷付けたりしたくないし」
「…………」

自分が生徒だった時、心無い教師の不用意な一言に傷付けられた経験が、瞬にそんな発言をさせるのだろう。
昔の苦い思い出を瞬に忘れさせるために、氷河は話の進行方向にさりげない修正を加えた。

「俺なんか、名前を覚えている生徒なんぞ、ひとりもいない」
「氷河は出席番号で覚えてるもんね。名前は覚えてなくても、クラスと出席番号を言われれば、生徒の顔は思い浮かぶでしょ」
「むしゃくしゃしている時には、偶然を装って、気に入らない生徒に難問を当てることにしてるからな」
「氷河……。自分のいらいらを生徒にぶつけるなんて……」
「偶然だ、偶然」
「明日は、Aクラスの11番当たりがターゲットだ。最近、態度が妙に反抗的で──」
「Aクラスの11番?」

教師にあるまじき氷河のストレス解消法に眉をひそめていた瞬が、手にしていたリストに視線を落とす。
図書館の出入館記録には、今日図書館を利用した生徒の学年、クラス、出席番号から成る個人認識番号と氏名が記載されていた。

「あ、やっぱり……。Aクラスの11番って、氷河、それが橋本君だよ」
自分の記憶が正しかったことを確認した瞬は、リストをテーブルの上に戻しながら、小さく吐息した。

「彼は気遣ってあげなくちゃ……。お母さんが神経症らしいんだ。高校に入った頃に、ご両親が離婚して、それで、ね。1年くらい前からかな。それまでは、すごくよくできたお母さんだったんだよ。2年生の時に、進路相談の面談で話したことがあったけど、子供思いで、細かいとこまで気配りの行き届いた穏やかな感じの人だった。それが……何だろ、あんまりいい母親でいようとして無理しすぎたのかな。急に、神経の方にきたみたいで──」

「……本当によく覚えてるな。もしかして、3学年200人弱、全員分の私事都合が、その頭の中には入っているんじゃないか?」
「氷河が無頓着すぎるの。生徒だって人間なんだから、それぞれに人格と人生と家庭と──いろんな問題を抱えてるんだよ」

「社会に出ると、そんなモノを気遣ってくれる人間ばかりいるとは限らない。予行演習のためにも、俺みたいに無神経な教師も必要なんだ」
「そんな乱暴な理屈……」
氷河と瞬では、教師という仕事に対する心構えと姿勢が、根本的に違っていた。
もしかしたら、それは、人間に対する態度の違いなのかもしれなかったが。

「俺だって、生徒が200人じゃなく、5人──いや、せめて、10人なら、生徒の全人格や家庭環境への気配りもできる いい教師になってみせるさ。しかし、200人では無理だ。公平を期そうとしたら、全員に無関心になるしかない。おまえは無理をしすぎなんだ。教師も人間なんだからな。自分の限界を見失うな。Aの11番の母親みたいになるぞ」

「でも、僕は、みんなにできるだけのことはしてあげたいし──」
「それで、通信簿を盗まれてりゃ世話がない」
「…………」
氷河の辛辣な一言に、瞬が言葉を失う。
さすがにそれは失言だったと、氷河は臍を噛むことになった。

「いや、だからこそ、盗んだ奴が許せないんだがな」
瞬は、生徒になおざりに接したりしない“いい教師”なのだ。
少々甘すぎて、生徒に舐められているきらいがないでもなかったが、だからと言って、こんな苦境に立たされていいはずがない。
盗まれたものが、瞬のものではなく氷河のものだったなら、氷河も、それは自業自得と諦めがついたのである。
盗難の被害者が瞬だということが、氷河をひどく立腹させていた。






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