「我が身が可愛かったら──いや、瞬のことを思うなら、見たデータの内容は忘れろ。それで、全てをちゃらにしてやる」 この会見の、それが結論だった。 互いに益のある契約の形をとってはいるが、氷河の告げたそれは一方的な通告で、告げられた側に異議を唱える余地は与えられていない。 通告を受けた生徒が、頷きもせずに、低く呟く。 「このCD−ROM、ほんとに、返すつもりで持ってきたんだ。昨日、やっとファイルのロックを外せて──瞬先生がファイルに設定してたパスワードが、『minna ga shiawase ni naremasuyouni』でさ、それだけのことで、なんか泣きたい気分になって、だから──」 Aクラス11番の生徒を泣きたい気分にさせた理由が、今時、そんなことを願う教師がいるという事実だったのか、瞬が幸福を願う対象が自分ひとりだけでないことに気付いたからだったのか、それは氷河にはわからなかった。 事実は、その両方だったのかもしれない。 「大変なのは俺だけじゃないってこともわかった。瞬先生、俺のこと、めちゃくちゃ買い被ってやんの。俺のデータの備考欄にさ、『繊細、傷つきやすい。でも、強い子』って書いてあってさ、期待、裏切れないだろ。裏切りたくなかった……」 だから、彼は、苦心してロックを外したCD−ROMを瞬に返すために、学内に持ってきたのである。 それは嘘でも言い訳でもなかった。 氷河も、その言葉までは疑うつもりはないらしい。 彼は、皮肉の色がないでもない笑みを浮かべて、窃盗犯の教え子に軽く頷いた。 「存外、素直じゃないか。馬鹿じゃあないな」 「…………」 氷河の言葉は、こんな愚かなことをしでかした生徒を、褒めている──少なくとも、認めてはいる──言葉だったのだが、その言葉を告げられた当人は、全く褒められている気分になれずにいた。 それは氷河ならではの、一種の人徳の為せるわざなのかもしれない。 Aクラス11番の生徒の、氷河への反抗心は既に萎えかけていた。 「瞬先生はあんなこと言ってたけど、あんた、自分が不幸だと思ったことなんか、ほんとは一度もないんだろ」 「ないな。瞬がいつも一緒だった」 「……そういう奴もいるよな」 彼は、ひどく羨ましそうに、教師らしからぬ数学教師を見上げ、呟いた。 「ま、瞬がいない不幸な男は、俺みたいに恵まれた男には辿り着けない高みに至ることもあるだろうから、せいぜい頑張って大物になってみせてくれ。おまえの将来性を買って、この件は不問にする」 氷河が、不運で不幸な教え子に追い討ちをかける。 「俺がノーベル賞をとっても、あんたより幸せにはなれない」 「ものは考えようだろう。瞬よりノーベル賞の方に価値があると思えばいい」 できるはずもないことを平気で言ってのける氷河に、彼の教え子はもはや無力感を抱くしかなかったのである。 幸福な人間に勝てる不幸な人間が、この世に存在するはずがない。 幸福な人間に勝とうと思ったら、人は彼よりも幸せにならなければならないのだ。 Aクラス11番の生徒には、今はまだ、それはできそうになかった。 肩を落として部屋を出ていこうとする教え子を、このまま帰してしまってはいけないと思った瞬が、掛けていた椅子から腰を浮かしかける。 氷河が、それを制した。 「大丈夫だ。こいつは馬鹿じゃない。それに──今、おまえに優しくされたら、こいつは泣く」 最後の反抗心を振り絞るようにして氷河を睨みつけ、それから無理に作った笑顔を瞬に向けて、不運な生徒は、生徒指導室を出ていった。 |