氷河が『大丈夫』と言い、本人も笑顔を作れていたのだから、きっと彼は大丈夫なのに違いない。 瞬は、そう思うことにした。 そして、素直で反抗的な生徒の倍もひねくれている数学教師に、おもむろに向き直る。 「……氷河、ほんとは優しいんだから、もっとわかりやすく優しくしてあげたらいいのに」 溜め息混じりにそう告げる瞬に、氷河は軽く横に首を振った。 「助言はしてやってもいいが……俺は、おまえ以外の人間は、実際に助け起こしてやらないことにしているんだ。いずれにしろ、この手のことは、奴が自分の中で割り切り、決着をつけるしかないことだ。俺たちには何もできない。見ていることしか」 「うん……」 悲しいことに、教師には教師の“分”というものがある。 氷河の言葉に、瞬は頷かざるを得なかった。 頷いて、氷河が取り戻してくれたCD−ROMを手に取る。 それが入っているケースのラベルには、『3学年・中間考査後暫定評価』の文字が印字されていた。 「通信簿かぁ……。氷河、いつもオール5だったよね。数学を除いて。物理はいつも満点だったのに、どうして数学がダメなのか、僕、すごく不思議だった」 「物理は重いものを動かすのに役立つが、数学は実生活で何の役に立つのかがわからなかったんだ。釣り銭の計算は、算数レベルで済むのに」 「そんなことで、授業中に居眠りばっかりしてたの!」 「オール5をとったら、おまえが俺と寝てやってもいいというから、猛勉強して──まさに、すさまじい空気抵抗に立ち向かい、それを制したんだ、俺は」 その一件で、数学というものの 今ではすっかり忘れかけていた昔のことを感慨深げに語る氷河に、瞬は頬を真っ赤に染めて反論した。 「違うでしょ! 僕が何かご褒美あげるって言ったら、氷河がそれがいいって、無理矢理──」 「そうだったか?」 氷河が、わざとらしくそらとぼける。 それから彼は、ふと思いついたように、瞬に尋ねた。 「あの時、おまえは何で急にあんなことを言い出したんだ」 それは、氷河が、これまで結果だけを喜んで、原因を気にしたこともない疑問だった。 手にしていたCD−ROMをテーブルの上に戻した瞬が、小さな声で答える。 「それは……クラスの子たちがみんな、成績あがったら、お小遣い上げてもらえるとか、ご褒美にゲーム買ってもらえるとか、楽しそうに話してるのを聞いて……。学校でいちばんの成績とったって、氷河は誰からも何のご褒美ももらえないんだって思ったら、何か悲しくなっちゃって──」 「ほんとに、 「キ……キスくらいなら、させろって言われるかもって思ってたけど、でも、まさか一足飛びに、そこにいくとは思ってなか……」 瞬の説明とも弁解ともつかない言葉を聞きながら、氷河がにやにやと嫌らしい笑いを浮かべる。 わざと怒った素振りを見せて、瞬は氷河の意地の悪いからかいから窓際に避難し、彼に背を向けた。 瞬の弁解は決して嘘ではなかったが、当時の瞬の心のどこかに、氷河の欲しがっているものがそれだという、予感とも不安ともつかない気持ちがあったことも事実だったのだ。 瞬が避難した窓から、一日の終わりを告げる夕暮れの風と穏やかな陽射しが、学び舎の一室の中に入ってくる。 それらのものが、瞬の頬のほてりを静め、その頬の赤みを隠してくれた。 「……氷河の飢えを満たすことで、僕が消えちゃうわけじゃないってことがわかったからだよ。むしろ、それはまるで逆で──」 その先の言葉は省略し、瞬は代わりに小さな声で、『それまでは、やっぱり、ちょっと恐がってたかも』と告げて、小さな苦笑を浮かべた。 「…………」 あの多感な時代、確かに自分は飢えていたのかもしれない──と、氷河は思ったのである。 実は自分は、不運を不幸にしているあの生徒に、あまり偉そうなことを言える立場にはないのだ、と。 家族の愛情、差別や哀れみを含まない人の視線──あの頃の氷河も、あの生徒と同じように、何もかもが自分だけに与えられないもののような気がして、苛立ち、憤り続けていたのだ。 他人の悲しみや迷いは、その当人以外の人間の目には見えないものだから。 あの頃の氷河には、それらのものはまだ見えていなかったから。 氷河にそれを気付かせ、知らせてくれたのは、彼の胸の下で臆病に震えている瞬の細い肩だった。 そして、氷河と同じように何にも恵まれていないはずの瞬が、それでも何かを人に与えようとする様を見せられた時に、氷河の目には、初めてそれが見え始めたのである。 |