「シュン。俺はこの国を出ようと思うんだが」 館の高窓から、ヘレスポントス海峡の入口にある港に入る一艘の船を見おろして、ヒョウガは呟いた。 「え?」 部屋の長椅子に腰掛けて楽器の手入れをしていたシュンは、その呟きを聞いて、顔をあげた。 窓際にある寝台を椅子代わりにしているヒョウガの背後には、初夏の午後の青い空が広がっている。 ヒョウガが見おろしているエーゲ海も、同じように青いはずだった。 「馬鹿な女だ。連れてきたパリスも馬鹿だが」 「馬鹿な女……って、スパルタのヘレンのこと?」 「他に誰がいる。あの女のせいで、二つの大国が滅びに向かうだけの戦が始まるんだぞ」 ヒョウガのその言葉で、シュンは、港に王家の船が入ってきたことを知ったのである。 今日は、レスボス島で王の入港許可を待っていた、この国の第二王子パリスが、トロイの町に帰ってくる日だった。 ──スパルタの王妃ヘレンを伴って。 ヒョウガの言う、二つの大国とは、このトロイと、そしてギリシャのことである。 もっとも、正確に言うなら、ギリシャは一つの国ではない。 それは、多数の ギリシャのポリスの中で、最も有力で繁栄を誇っているのが、アガメムノン王が治めるミケーネである。 その豊かな富は、人をして、『黄金のミケーネ』と呼ばしめるほどのものだった。 ミケーネのアガメムノン王の弟・メネラオスが、スパルタの王女ヘレンを妻にし、現在は王として、スパルタを治めている。 トロイの王子パリスは、そのスパルタのメネラオス王の許から、王妃ヘレンを奪ってきたのである。 今はまだ明確な姿を見せていない戦いを引き連れて、恋し合う二人を乗せた船が、今、トロイの港に入ってきたのだ。 |