「しかし、本当に、あれだけの美女を見ても、眉一つ動かさんのだな、おまえは」

スパルタの王妃が『世界一の美女』と呼ばれているのは、実は、パリスが流した噂が元になっていた。

ある日、パリスの元に3人の女神が、最も美しい女神に与えられるという黄金の林檎を持って現れた。
その中の一人が、彼女に林檎を手渡す代償として、パリスに『世界一の美女』を与えることを約束した。
その女神が、愛と美の女神アフロディーテで、約束の美女がヘレンだというのである。

パリスがその噂を流布させたのは、ヘレンのスパルタ出奔は不貞の故ではなく、神の意思なのだと人々に思わせようとしてのことだったろう。
まさか、それが、プリアモス王の王女たちに、
「確かに、女たちの中では世界一かもしれないけど」
という嘲笑を誘う種になろうとは、男子であるパリスには想像もできなかったに違いない。

ヘレンにとっては不運なことに、トロイの王宮には美しい男たちが多くいすぎたのである。
なにしろ、トロイの王宮には、最も美しい女神としてパリスが選んだアフロディーテの息子がいた。

「この眉を僅かでも動かしたら、シュンが焼きもちを焼く」
「僕はそんな……。だって、僕はちゃんとびっくりしたよ! すごく綺麗な人だと思った」
「嘘をつけ。シュンも大して驚いていなかった」
アフロディーテの息子に突っ込まれてしまったシュンが、困ったように眉根を寄せる。

「だって……毎日、ヒョウガを見てるのに」
綺麗なものは見慣れているのだと、アフロディーテの息子を無視して、シュンは呟き、
「化粧が濃すぎる。シュンは素顔のままで、あの女の100倍も美しい」
恋人を賛美することにかけては、ヒョウガも負けてはいなかった。

「勝手にやってくれ」
アエネアスとしては、肩をすくめて溜め息をつくしかなかったのである。

そのアエネアスに、シュンの肩を抱き寄せたヒョウガが、皮肉に笑いながら尋ねた。
「そういうおまえも、大して感動していたようには見えなかったが」
「スパルタでも何度かヘレンは見ていたし、おまえたちのおかげで美形は見慣れているからな。パリスは女にしか反応しないから、おまえたちを見知っていても、ヘレンにイカれてしまえたんだろう」

その言葉で、ヒョウガは、友人の愚行を思い出したらしい。
ヒョウガの毒舌は、今度は、彼に第二の祖国とねぐらを与えてくれた友人に向き始めた。
「共にスパルタに行っていながら、パリスの愚行を止められなかったおまえも馬鹿だ」
「言うと思った……」

パリスの暴挙を止めることのできなかった自分を、アエネアス自身も悔いていた。
が、トロイ王家の王子と言っても、パリスは主筋であり、アエネアスは傍系で、ほとんど家臣のようなものである。
更にアエネアスはパリスより数歳年下だった。
国王夫妻である父母に甘やかされ我儘いっぱいに育ったパリスに、意見できる立場ではない。アエネアスがパリスに優っているのは、分別や美貌といった個人の資質だけで、その地位はパリスにはるかに劣るものだったのである。

「馬鹿ばかり揃っているから、トロイを出ると言い出したのか? おまえがいなくなると、皆が、機を見るに敏な武将に見捨てられたと不安がる」
「安心しろ。トロイの者たちだけでなく、名誉だの領地だのを欲しがって、のこのこ遠出してきたギリシャの英雄志願の男たちも皆、馬鹿だ。俺は、馬鹿同士の争いを避けて、シュンの身の安全を図らなければならないんでな」

「トロイは──負けると思うか」
「勝てると思っているのなら、おまえは本当に馬鹿だぞ」
声を潜めて尋ねてくるアエネアスに、ヒョウガはわざと大きな声で答えた。

「戦場は、このトロイ。ギリシャは、兵站へいたんもトロイの領国内で賄おうとするだろう。そして、遠征してきているギリシャ軍は、どれほど被害を受けようと、背後に無傷の領国があるんだ」

考えるまでもない自明の理だと言わんばかりのヒョウガの口調に、アエネアスは表情を曇らせて沈黙した。






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