故国であるギリシャに負けてほしいわけではなかったが、トロイが滅びてしまうことにも耐えられない。
シュンは、ギリシャ軍を撤退させる方法はないものかと、考えあぐねていた。

「ヘレンが、ギリシャにトロイを攻める口実を与えるために、夫の差し金で、わざとパリスにさらわれてきた──ということは考えられない?」
もしそうなのであれば、ヘレンの真意をプリアモス王たちに披露することで、挑発に乗るなと説得し、戦を回避することができるかもしれない。
ヒョウガの言う通り、シュンの目にも、ヘレンはさほど愚鈍な女性であるようには見えなかった。
彼女は、自国の利益のために、それくらいのことはしてしまいそうな、意思的な眼差しを持っていた。
そして、こういう深刻な場面では、中途半端に頭のまわる人間が最も危険なのである。

トロイの王家の女性たちは、戦と共にやってきたヘレンを快く思っていない。
兄弟や夫の命が危険にさらされることになるのだから、それも当然である。
ギリシャとは言葉も違う異国の地では、親しく語り合うことのできる友人もできず、ヘレンにとっても、トロイは居心地の良いところとは言えないだろう。

ヘレンさえギリシャに戻れば、戦の口実は失われる。
トロイの王宮内には、それを望む者の方が圧倒的に多い。
ヘレンとパリスの恋が真実のものでさえなければ、戦は終わるのだ──。
シュンは、パリスには悪いと思いながらも、それを期待したのである。
だが、ヒョウガの答えは、シュンの期待を裏切るものだった。
一度終わったヒョウガは、シュンをその胸に抱き寄せて、少し乱れ絡んでいるシュンの柔らかな髪を指で弄んでいた。
その指の遊びを止めもせずに、ヒョウガがシュンに告げる。

「それはないな。奪われた妻を自力で取り戻そうともせず、兄に取り返してくれと泣きつくような男だぞ、メネラオスは。奴は、自分の名誉に泥を塗ってまで、尽くしてやりたい夫じゃない。パリスの方がまだましだ」
「そ……う……」
「案外、馬鹿な男たちを手玉に取るのを面白がっているだけかもしれないぞ、ヘレンは」
「まさか」
多くの命が奪われるかもしれない、この由々ゆゆしい事態に、そんなふざけた軽口を叩けるヒョウガの神経が、シュンには信じられなかった。
ヘレスポントスの海峡に現れたギリシャ軍は、今は地形の調査や兵站地を探すことに兵力を割いているようだが、それが終われば、彼等はすぐにトロイの町を攻めてくるに違いないのだ。






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