トロイの王宮の、海に面していない側にある庭に、彼女は一人で佇んでいた。
彼女は、彼女を追ってやってきたギリシャの船を見たくなかったのかもしれない。
海の青の代わりに乳香樹の緑が、絶世の美女の周りを彩っている。

「こんにちは」
シュンがヘレンの許を訪ねたのは、ヒョウガのためだった。
始まってしまった戦は止められないとヒョウガは言うが、それでもシュンは、この戦をやめさせたかったのである。
目の前で闘いが始まり、その闘いの中で、誰が勝つのも誰が負けるのも、それはヒョウガを闘いに誘うためのイベントになる。
そうなる前に──シュンは、ヘレンに、ギリシャに帰ってもらいたかったのだ。

「あなたは誰?」
シュンより頭ひとつ分背の高い、すらりとした肢体の美女が、突然の訪問者に名を尋ねてくる。
トロイの言葉は操れないらしく、それは彼女の故国の言葉だった。

シュンも、ギリシャ語で答える。
「僕……は、あの、パリスの妹のクレウサ王女を妻にしてて、トロイ王家の王子の一人でもあるアエネアスのところでお世話になっているヒョウガという者の友人なんですが」
「つまり、パリスの何なの」
「……他人です」

「──」
世界一の美女が、シュンのその返事に瞳を丸くする。

シュンは、慌てて、言葉を継ぎ足した。
「ご……ごめんなさい、僕、自己紹介の仕方を間違えてしまったみたい。パリスの名を出したら、お話してくださるかと思ったんです。僕、ただの野次馬です。世界一の美女を近くで見てみたかったの」
「大したことはないと思っているのでしょう。あなたも驚いていないみたい」
「あ……僕は特別なんです。世界一綺麗な男性を見慣れてるから。あ、いえ、僕の目にはそう映るっていうだけのことなんですけど」

シュンのいかにも苦し紛れの弁明にも関わらず、ヘレンは、シュンをそこから追い払おうとはしなかった。
ギリシャ語を解する人間に出会えたことが、彼女を喜ばせたらしい。
存外に親しみやすい口調で、ヘレンはシュンに語りかけてきた。
「同じ世界一なら、女よりも男の方が上というわけね、このトロイでも」
「……え?」
「まあ、お掛けなさい。私と話してくれる者がいなくて退屈していたところだったの」
「あ、はい……」

子供だと思ってるにしても、この隙だらけの仕草と馴れ馴れしさはどういうことなのだろう?
シュンは戸惑いながらも、彼女が指し示した石の椅子に腰をおろした。

「トロイもそうだというのなら、なおのことよ。せいぜい美しくなりなさい。女の武器はそれだけだわ。戦の勝利だ名誉だ領土だ何だのと騒いで、自分たちは外で好き勝手なことをしているくせに、男たちは女には貞節だけを求める。悪い噂はもちろん、良い噂が立つのも、女としては失格。万事控えめ、家の奥でおとなしく、子を産み、子を育て、自分の楽しみなど求めてはいけない。夫や息子のために我が身を犠牲にしてこそ、良い妻、良い母親!」

「…………」
シュンの隣りに腰をおろし、その肩を抱くようにして滔々と語り始めたヘレンに、シュンはしばし呆気にとられた。
やがて、彼女の隙だらけの態度が、とんでもない誤解に基づいていることに気付く。

「ああ、ほんとに可愛い子。今にきっと私より美しくなるわ。そうしたらね、男たちを翻弄し、そのことで責められても、微笑一つで許させてしまえるような女になりなさい。他に女に楽しみはないのよ」
ヘレンは、シュンを少女だと思い込んでいるのだ。
シュンは、王宮に出入りするような女性なら決して身に着けない膝上丈のキトンを着ていたのだが。

が、シュンは、その誤解を解くわけにはいかなかった。
このトロイでは、おそらくギリシャ以上に女性には貞節が求められている。
それ故に、夫を捨ててきたヘレンへの風当たりも強い。
そして、そんなつもりは全くないとはいえ、シュンは一応性行為が可能な歳に達した男子だった。
ここで、余計な警戒心をヘレンに抱かせて、聞きたいことが聞けなくなるのは困る。

「……パリスも、その翻弄させたい男たちの一人なんですか」
シュンは、ヘレンの誤解は解かずに、そう尋ねた。

問われたヘレンが、一瞬考え込む素振りを見せる。
それから、彼女は呟くように言った。
「……かもしれない。そうではないかもしれない。彼は──」

呟くようだった彼女の口調は、しかし、すぐに、何かを主張するような力を帯び始めた。
「パリスは、男たちの尺度で見れば、分別のない愚か者なのでしょうけど、私にとって彼は、私を牢獄から解放してくれる解放者だった。しかも、若く美しく情熱的。そう、多分、私は、彼が愚かだから、彼を愛したの。愚かだから、彼を愛しているんだわ」

「愚か……だから?」
「そうよ。あなたも、そういう男を見つけなさい。分別のある男は、女を殺すだけ。パリスのように愚かで美しい男が、女にはいちばんよ」

「…………」
シュンには、何も答えられなかった。
今更、自分は男だとも言えなかった。

ただ、恋のために故国を捨てたヒョウガは愚かな男なのだろうかと、シュンは、それだけをぼんやりと考え始めていた。






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