「ここを出よう。おまえに落城の混乱や悲劇を見せたくない」
ヒョウガがシュンにそう告げた時、二つ返事で賛成すると思っていたシュンの返事は、ヒョウガには思いがけないものだった。

「トロイの人たちを見捨てるの。ヒョウガは──僕のために卑怯者と呼ばれるつもりなの」
シュンは、切なげな目をして、ヒョウガにそう訴えてきたのである。
意外としか言いようのないシュンの言葉に、ヒョウガは驚くより先に戸惑った。

「俺は──卑怯者と蔑まれることなど、少しも恐くはないぞ。おまえを泣かせることに比べれば、蚊に刺されたほどの痛みも感じない」
「でも、トロイの人たちは──」

「アエネアスが──あいつは馬鹿な人間の中では利口な方だから、あいつがいる限り、トロイは滅びはしないだろう。だが、戦いに出ない者を養う余裕は、トロイにはなくなるはずだ。俺たちがいると、アエネアスの立場が悪くなる」

「でも、ヒョウガ」
シュンが食い下がる訳が、ヒョウガにはわからなかったのである。
シュンは何よりも──臆病よりも、卑怯よりも、怠惰よりも、愚鈍よりも──人が傷付き、傷付けられることを嫌悪していた。
そのシュンが、戦場に残れと言う。
それは、シュンならば決して口にしないはずの言葉だった。

「今はまだ、こうして戦いの愚や悲惨をおまえに語っていられるが、おまえの身に何かあったら、俺はおまえの仇をとろうとして、戦場に出向くだろう」
シュンの言葉を訝りつつ、ヒョウガはシュンに告げた。
「パトロクロスの件で、わかった。俺は、ヘクトルよりもアキレスの気持ちがわかる。大事な人間を殺されたら、俺もアキレスのように──多分正気ではいられない。もしそんなことになったら、俺は、この戦に関わった者たち全てを殺してやっても飽き足りないほどに荒れ狂うだろう。手当たり次第に殺してまわる。俺は、そんな人間になって、おまえを悲しませるようなことをしたくないんだ」

「…………」
シュンは、ヒョウガのその言葉を嘘だとは思わなかった。
だが、それは、完全な真実でもない。
シュンには、ヒョウガの気持ちが手に取るようにわかっていた。

ヒョウガはただ闘いたいのだ。
闘いたい自分を抑えられないのだ。
この戦を始めた者たちを愚かだと蔑みながら、ヒョウガは、その中に我と我が身を投じたくてうずうずしている。

それが人間というものなのか──。
シュンは、彼から戦いを奪ったことに、今は罪悪感さえ覚えていた。

「逃げなきゃ我慢できないほどに──ヒョウガは闘いたいんだね……」
シュンはヒョウガに低い声でそう告げて、力無く瞼を伏せた。






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