ヒョウガがシュンと共にトロイを後にしたのは、兄を殺されたパリスがアキレスを矢で射抜き、そのパリスもまたフィロクテテスの矢に倒れた翌日のことだった。 「トラキアに行くつもりだ。今のところ、あそこは中立を守っている。その後は──まあ、状況次第、俺たちの気の向くままだな」 城壁の外まで見送りにきてくれたアエネアスに、ヒョウガは形ばかりの笑みを作って、そう告げた。 「戦いのない国があったなら、シュンを喜ばせてやれるんだが──戦いを捨てて、シュンを選んだ身の俺には、平和な国を作る力もない。矛盾だな」 背負うべき国と民を捨てた王は、アエネアスにそう言いながら、しかし、とても清々しい目をしていた。 そして、ヒョウガにそう告げられたアエネアスは、そんな友人を、心底から羨ましいと思ったのである。 「トロイは負けるぞ、多分。その時、この国の人間をどれだけ救うことができるのかは、おまえにかかっている。脱出用の船の準備を怠るな」 「出港の時には来てくれるか。戦いのない国を作るための旅立ちなら、おまえのシュンも文句は言うまい? そんな国を作って、シュンに見せてやりたい」 アエネアスもまた、この長い戦いに 多くの同胞と、親しい身内を二人まで失ったのであるから、それも当然のことだったろう。 「おまえがシュンに手を出さないと約束するのなら、協力しないでもない」 「俺はそんな──」 戦いに明け暮れ、戦いに疲れ始めた者の目に、シュンがどれだけ魅力的に映るのかを、ヒョウガは十分に承知していた。 アエネアスが、ヒョウガのその“誤解”にたじろぎ、弁解を始めようとしたところに、シュンが駆けてくる。 アエネアスの前にやってきたシュンは、親切な友人にぺこりと頭を下げ、心苦しそうに別れの言葉を告げた。 「アエネアス、ごめんね。散々お世話になっておきながら、こんなふうに逃げるみたいに……」 「……シュンが謝ることはない。シュンを引きとめておけないのは、このトロイを、シュンが望むような戦いのない国にしておけなかった俺の無力のせいだ。俺は、ヒョウガのように国を捨てることもできない──」 それができる人間を強いと思い、羨ましいとも思う。 それは、アエネアスの嘘偽りのない本心だった。 故国を捨て、同胞を捨てて、戦いを避ける──それは誰にでもできることである。 そして、ひどく簡単なことのようにも思える。 しかし、集団の中に属する安堵感にすがり、卑怯のそしりを受けることを怖れて、人にはただそれだけのことが容易にはできないのだ。 「僕……アエネアスになら、戦いのない国を作ることもできると思うよ。僕とヒョウガは──お互いしか見えなくなっちゃって、戦いを避けるために逃げることしか思いつかなかったけど、戦いのない国を作るための戦いなら、もしかしたら僕たちにもできるかもしれない。だから、その時には、僕たちを呼んで」 「ヒョウガがもう少し寛大になって、あの焼きもち癖がもう少し控えめになっていたら、その時にはぜひ来てくれ」 誤解は誤解ではないのだから、見苦しい言い訳をすることもないだろうと、アエネアスは開き直った。 「?」 シュンが、親切な友人のその言葉に、首をかしげる。 ヒョウガは、いつまた会えるともわからない友人にそれ以上は何も言わず、港に向かって歩き出し、シュンは慌ててその後を追った。 一度も振り返ることをしないヒョウガと、幾度も幾度も振り返って手を振るシュンの姿を、滅びの予感の漂うトロイの城壁の下で、アエネアスはいつまでも見詰めていた。 |