──微かに血の匂い。
大地の裂け目に落ちた時、彼はその皮膚のどこかを傷付けてしまったようでした。
その匂いに、シュンの身体が反応します。
シュンは、ふいに、自分の飢えを思い出しました。


シュンは、ふらふらとその匂いに引かれるように、裂け目の中に飛びおりました。
裂け目の底は、シュンが殺されたいと願った青年がやっと横になれるかどうか程度の広さしかなく、むしろそれは、大地にぽっかりと開いた穴と言った方がいいようなものでした。

そんな狭いところに、鋭い牙と残虐な爪を持ったオオカミが飛びおりてきたのですから、青年の驚きは尋常のものではなかったことでしょう。
羊たちの騒ぎを聞きつけて、銃だけを手にシュンを追いかけ始めた青年は、ナイフも持たずに家を出てきたようでした。

──シュンは飢えていました。
彼の血の匂いが、シュンの鼻腔を甘くくすぐり、シュンは思わず、低い唸り声を漏らしました。

身を守る武器を持たない上、怪我をして動けない青年が、全身を緊張させてシュンを睨みつけてきます。
恐怖より憎悪のこもった瞳でした。
世界中の誰よりも、シュンを憎んでいる眼差しでした。

その目が──その青い瞳の冷たさと厳しさが、シュンの身体に、再びシュンの心を運んできました。
あれほど憧れていた青年の、これほど側近くにいるというのに、シュンは、彼に憎悪と拒絶の眼差ししか向けてもらえないのです。
今は飢えを押しのけてシュンの身体を支配しているシュンの心は、それが悲しくてなりませんでした。

その悲しみに耐えかねて、シュンは、悲嘆の嗚咽を漏らしました。
けれどおそらく、それすらも、彼の耳には、飢えたオオカミの不吉な唸り声としか聞こえていないのでしょう。
彼がシュンに向けている瞳に、同情の色が浮かぶことはありませんでした。


──シュンは飢えていました。
飢えていたのに、彼がご馳走に見えませんでした。
シュンは彼に殺されることを願っていました。
けれど、今の彼は、シュンを殺す力を持っていません。

彼には、鋭い牙も爪もありません。
それどころか。
シュンのように長い毛で覆われていない彼の身体は、このままここから抜け出すことができなかったなら、シベリアの冬の夜を耐え切れないだろうと思えるほどに脆弱でした。
なのに、その瞳だけが、恐ろしいほどの力を持って、シュンの心を切り刻み続けるのです。

脆弱で美しいこの人間の命を永らえさせるにはどうしたらいいのか──シュンの心は、その方法を模索し、それだけを願います。
やがてシュンは、その方法を見付け出しました。

シュンは、泣きたい気持ちをこらえながら、恐る恐る──彼を驚かせないようにゆっくりと──自分の身体を彼の身体にぴったり寄り添わせました。
彼を凍えさせないためには、そうするしかないと思ったからです。

シュンは、灰色の毛で覆われている自分の身体を、これほどありがたいと思ったことはありませんでした。
彼の金色の髪のように輝いているわけでもなく、美しいわけでもない、くすんだ灰色の長い毛が、今は彼を温めてあげることができるのですから。






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