「『とにかく、氷河にだけは後れをとるな!』だとさ」

後藤も先崎も他のメンバーも、実に悲しいことに、こんな時刻に社を出たことがなかった。
本音を言うなら、瞬と共に社に帰りたいというのが彼等の希望だったのだが、瞬にああ言われた手前、その好意を退けるのも決まりが悪い。
平日の明るいうちから自分の時間を与えられても、その時間の過ごし方をほとんど忘れかけていた後藤と先崎は、とりあえず、開店したばかりのワイン・バーに入ってみることにした。

「いつものボスなら、『自分のベストを尽くしたと自信を持って言えるのなら、その結果がどうあろうと虚心に受けとめ、次回に活かしてくださいね』ですよねぇ」
平生の、人当たりがよく、神経は細やかだが切れ者の印象の全くないボスの姿を思い浮かべ、後藤が複雑な面持ちでぼやく。

テーブルの上には、チーズの盛り合わせと、1985年のロマネ・サン・ヴィヴァンの赤のボトルが1本。
10万以上するワインのようだったが、こんな時でもないと給料を使う場がない二人は、さしてためらいもせずにそれを注文した。

「キオーン・プランニングとは、年に4、5回は競合することになるんだが、あそこと当たるといつもこうなんだ」
「成績はどうなんすか?」
「勝ったり、負けたり、五分五分かな。あちらさんは、小さな取り引きには手を抜くことが多いから、白星の数ではこっちが勝ってるのは確かなんだが、売上げとなるとあまり変わってないんじゃないかな。ムラはあるが、ミスは犯さない奴なんだ、あの金髪男は」
「すごく ヤな奴っすね」
「全くだ」

毎日十数時間を同じオフィスで同じ仕事に取り組みながら過ごしている先輩と後輩が、酒を飲みながら世間話をするのも、これが初めてのことだった。
話題は、結局、仕事のことにならざるを得なかったが。

「ボスが気にしてた件、手掛かりがなくて悪いが、できる限りのデータを集めてくれ」
「はいっす!」
先輩の手前だということを割り引いても、元気に良い子の返事を返してよこす後輩に、先崎は微かに首をかしげた。

「おまえ、新入りのくせに、どれだけ働かされても、ほとんど不平を言わないな。ここんとこ、夜も遅いみたいだし、休みにも出社したり、夜中に自宅の端末から社内LANにアクセスしたりしている。今時の新卒ってのは、もっと楽をしたい人種なんじゃないのか」

この就職難の時代にも、学校卒業後の就職で3年未満に会社を辞める第二新卒の数は、さほど減っていない。
その退社の理由は、仕事の内容がつまらないにしろ難しいにしろ、『自分の希望と違っていた』というものがほとんどらしい。
給与は格段にいいにしても、その給料を使う時間もないほど会社に拘束されて不満の一つも言わない後輩が、先崎は不思議だった。

「そりゃ、楽して金をたくさん貰えるんなら、それがいちばんすけどね。でも、ボスは、俺より もっとずっと仕事してるじゃないすか。俺、心配なんす。あの細い身体で、あんな無理して……。ボス、ちゃんと寝てるんすかね」
「ウチのボスは、俺たちよりはずっと場数を踏んでるし、度胸もある。精神的にも強いし、安定してる」

「顔は中学生みたいなのに?」
氷河の言葉を借りて、瞬をそう評し、後藤は苦笑した。
後藤は未だに、自分のボスが自分より年上だとは、どうしても思うことができずにいた。

「顔で騙されそうになるが、その中学生が、頭が切れる上に、いつも必死でな〜。つい、引きずられてしまう」
結局は自分も後藤と同じなのだと白状して、先崎はロックフォールチーズのスライスを口の中に放り込んだ。

「仕事以外に趣味とかないんすかね」
「ないんじゃないか。一日の大半を社内で過ごしてるし、外出するのも大抵は仕事絡みのミーティングのため。仕事の鬼だ。独身、恋人なし」
「あっちのボスは遊んでそうだったすね」
「あちらさんも、ウチのボス以上に仕事の鬼らしい。仕事以外の趣味どころか、浮いた噂ひとつ聞かない」

その話は、後藤には意外だった。
意外な上に、不快だった。
生真面目この上ない自分のボスと、遊び人の敵方のボス。そういう構図の方が、なにしろライバル打倒を声高に叫びやすい。

「──あんな顔してたらモテるでしょーに」
「仕事を愛してるんだろ。ウチのボスに勝つことに至上の喜びを感じてるのさ」
「変態っすね」
「それは間違いないところだ」

実に素晴らしい結論に、二人のサラリーマンが爆笑する。
ワインとはいえ、酒が入っているせいか、二人は口も気分も軽くなっていた。






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